郷土研究と文芸・学術

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明治末年から大正期は、自我確立の時代となってくることから独自の学術進歩と個性ある文化の発達をしめす著述や時代色を反映した刊行物が一段と多くなってくる。現長野市域では、明治三十五年(一九〇二)一月『上水内郡会沿革史』第一編をはじめとして、各郡会沿革史や郡史誌類(表92)、郷土史誌などが競うように発刊された。このうち郡会沿革史が大正末年までに完了したのは、大正十二年(一九二三)の郡制廃止によるものであった。


写真138 『埴科郡会沿革史』と『更級郡会沿革史』


表92 郡史誌類の発行 (明治末年~大正期)

 『上水内郡誌』はその発刊の趣旨を「諸般の方面より江湖に紹介せんと欲して之を編纂せり従って地理、歴史、社会、経済、人事等諸方面より洽(あまね)く材料を網羅して之を記述せり」としている。この編さんは、明治三十七年校長会が議決し、取り調べ委員をあげて同三十八年から翌九年のあいだに各村当事者や学校・県庁・郡役所等の諸公文書および諸記録等から資料を蒐集し、同年十一月さらに編さん委員八人をあげて編集にかかったもので、郡会はこれに賛同して経費を負担し四十一年郡役所名で発刊された。


写真139 明治41年発行の『上水内郡誌』
(信濃教育会所蔵)

 郷土史誌類の発刊も多くみられるが、これらの内容は地域案内の類が多く編著者は個人や団体によるものが多い。なかには歴史研究会や青年会など私的な研究グループによるものもでてきている。このような動きは当時、栗岩英治のような本格的な歴史研究家の日常指導やその研究著書である『信濃史談』『信濃古文献考』などの発刊等による影響が大きかった。

 長野市は、大正六年の市制施行二十周年を記念して『二十年間の長野市』を発刊したが、これは市の行政にかかわる事績のあらましを吏員がまとめたもので市史といえるものではなかった。そこで長野市教育会(会長牧野市長、副会長渡辺敏)は大正七年四月市史の刊行について開申し、市はこれをうけて市教育会に委嘱し、秋野太郎(同五年教職退職)を編さん主任として編集をすすめ、同十四年『長野市史』を発刊した。このように郡史誌類や郷土史誌類の編さんは、各郡市の校長会や信濃教育会の各郡市部会が主唱して郡市に働きかけ編さんの主体となったものが多かった。編さん委員等には教員を主とする研究者が委嘱された。いっぽう、大正十四年五月発刊の『箱清水郷土誌』は、地区の青年会が独自に刊行したものである。


写真140 大正14年発刊の最初の『長野市史』

 信濃博物学会は、明治三十五年六月に矢沢米三郎を幹事長に長野師範学校内につくられ、植物や鉱物の採集登山に重きをおいて活動した。結成後五一七人の入会者があり、会誌『信濃博物学雑誌』を発刊し、毎月一回の例会と春秋二回の研究旅行をおこなった。大正初年にいったん自然消滅したが後年信濃生物学会にその学的遺産が引きつがれていく。

 信濃哲学会は、長野師範学校教諭務台理作の京都大学哲学科入学が機縁となり、西田幾多郎の『善の研究』や『思索と体験』が出版されると、県内教師間に西田哲学へのあこがれが高まった。この動きの中心をなしたのは、かつて務台と東京師範で共に学んだ長坂利郎であった。大正五年西田の哲学講習会が長野、諏訪、上田の各地で開かれた。そして大正九年一月守屋喜七を代表に、長野市鍋屋田小の長坂利郎を幹事として信濃哲学会が結成された。初め二年間は西田門下の安倍能成の西洋哲学史を松本と長野で聴講したが、その後は西田の講義を直接聴くようになった。

 信濃史料編纂会は、大正元年十月組織され、信濃関係の古文書、古記録、近世の編さん著述など五〇種に近い書目を収蔵した『信濃史料叢書』全五巻を発刊して、大正三年刊行を終えた。これは信濃の歴史を事件別に把握するのに好適な史料を収めており、当時、信濃史関係の大成本としては空前のもので、信濃史研究を助長した特筆すべきものであった。

 信濃不言会は、大正十年十二月、松本女子師範附属小学校の初等教育講習会に講師として、東京成蹊高等女学校の奥田正造が来県したのを機縁に、以来おもに県内の教職員が、茶の湯を学び、行的体験を通して修養する会としてはじまった。最初に講師を依頼したのは南佐久郡の女教員会であったが断られた。会員五人が上京して成蹊女学校生徒に加わって指導をうけ、二年にわたる会員の体験ぶりをみて、昭和三年(一九二八)八月はじめて南佐久郡臼田町で奥田の茶道講習会が開かれた。その後は毎年県内各地で講習会が開かれていくようになった。

 松代では、大正期の俳壇に、九竜吟社、俳風会、大清吟社、扶桑吟社、藤沢吟社などがあり連句熱が再燃していた。同十年、松代開府三百年祭の開催にあたり、これまでの吟社を統合し十万石吟社を結成して『松代開府三百年記念句集』を発行してひろく配布した。また、文芸では個人でも、東条村出身の塚原健二郎が、島崎藤村の指導をうけ、大正十年創作「血に繋がる人々」を『中央公論』に発表して文壇にデビューし、大正末期からは童話を執筆して雑誌『赤い鳥』をはじめ『銀河』『赤とんぼ』『とおげの旗』『日本児童文学』などに発表し多彩な活動をつづけた。また、短歌では、明治末年に若山牧水とともに雑誌『創作』を創刊し、その没年までこの道に生きた東条村出身の中村柊花などがあった。