日露戦争後から県内では日刊新聞が増加し、明治四十年(一九〇七)に一〇紙であったものが一〇年後の大正六年(一九一七)には一九紙に倍増し、さらに一〇年後の昭和二年(一九二七)には二九紙の発刊がみられた。大正デモクラシー期をはさむこの二〇年間で約三倍に増えている。長野市では、明治三十年代の末までにすでに営業していた『信濃毎日新聞』『長野新聞』『信濃日日新聞』の三紙がこの時期を継続して占めており、この三紙の発行部数はあわせて一三万一三〇一部をこえ県内日刊紙の五三パーセントを占めていた(昭和二年十一月内務省警報局調べ)。
信濃毎日新聞は、主筆山路愛山の後任として、明治四十三年九月東京朝日新聞の記者から桐生悠々(政次)を迎えた。ひさびさの大物記者をむかえて、県下の青年団などから桐生の講演依頼が多く、思想・文化の各面で青年たちに影響をあたえた。また、桐生の在職最後の大正十一年に、『信毎』ははじめて夕刊紙の発行を開始した。大正十二年一月から『信毎』の主筆は、大阪朝日新聞や国際通信社で記者を歴任した風見章にかわるが、同時に長野市出身の林広吉と埴科郡屋代町出身の柳町精(営一)の気鋭記者がはいって、風見の両腕として活躍する。同十三年第二次護憲運動がはじまると、信毎社長の小坂順造は政友本党に走ったが、『信毎』の社説は関係なく護憲運動を支持した。また、十五年七月警察署廃止にかかわるいわゆる警廃事件がおきると、『信毎』は民衆の心情を支持する社説をかかげた。これに反し、廃止をすすめる知事を支持した長野新聞社と信濃日日新聞社は民衆の打ちこわしにあっている。また、風見の在職中大正十五年には『信毎年鑑』の発行がはじめられている。
『長野新聞』は、明治三十二年六十三銀行をバックに、更級郡出身の政友会派によって創立された。これは明治初年に『信濃毎日新聞』の前身であった『長野新聞』とは別のもので、むしろ信毎社長小坂善之助の政治勢力に対抗しようとしたもので、報道や販売面でもしばしば『信毎』と競合した。主筆には宮崎宣政、三好越南、風間礼助、山本聖峰(慎平)、矢ヶ崎賢次(大心)らがあいついだ。なかでも山本聖峰は、同時に政友会北信支部の幹事をつとめ、また県会議員でもあったが、信州教育に新風を吹きこんでいた白樺派の教師たちをきらい、八年二月の臨時県会では「極度の空想家」と攻撃し、同紙にもくりかえし自由教育弾圧の論説をのせた。しかし、そのいっぽうでは同紙編集長の矢ヶ崎賢次や県学務課長の津崎尚武・首席県視学の佐藤寅太郎・信濃教育会の守屋喜七らとともに、県費補助もうける長野読書会をつくり講演会を開くなど通俗社会教育にも活躍した。しかし、政党機関紙として、ときに県政批判や報道にも立ちおくれ、昭和二年(一九二七)四月廃刊となった。
『信濃日日新聞』は、明治三十九年九月、社会主義者を自称した佐藤桜哉が長野市南県町に『信州新聞』をおこし、一時『信越新聞』と改題したが、大正五年一月に佐藤の手をはなれ、小林久七が社長となり『信濃日日新聞』と改め、新社屋を長野市旭町に建てて輪転機も購入、関露紅、山路愛山、風間礼助らが主筆を歴任し、非政友の論陣をはった。
明治四十五年四月、更級郡では県下で最初の郡報『更級時報』を発行した。この時報は年間平均六号を発行するもので、発行兼編集者は郡長の津崎尚武であったが、発行所は郡役所内におかれた更級郡自彊(じきょう)会であった。「自彊」の語彙は、戊申(ぼしん)詔書中「荒怠相誡(いまし)メ自彊息(や)マサルヘシ」からとったもので、大正期にはひとつの流行のように団体名やその会所名などにつかわれた。長野市南県町にできた自彊館もそのひとつである。更級郡自彊会の目的は「戊申詔書ノ御趣意ヲ奉戴シテ」とし、会員は郡内の毎戸主、会費は篤志家の義援金とし徴収しない。事業は、殖産・善行良風の奨励、社会教育の普及、道徳・経済の要義や自治教育の講演、研究などであった。郡報とはいえ形式的には半官半民的な運営によるものであった。記事内容は、青年会や農芸が多いが文芸・新体詩・和歌・俳句なども毎号掲載され、郡民の文化的向上に影響をあたえた。
このほか各村内でも時報が発行された。『芋井時報』はそのひとつであるが、大正十一年一月一日付け六ページが創刊号で、毎月一回十日発行となっており、発行兼編集人は風間政治村長である。同村長は発刊の序で「町村自治当局者の衷心誠意ある計画施設をして村民全般に洩れなく了解徹底せしむることが尤も至要の事」としている。このかぎりでは行政サイドの伝達指導がつよく、記事内容もその面が多いものであった。