野球・庭球の発展

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小学校の野球は、長野師範学校主催の小学校連合野球大会によって発展していった。大正四年(一九一五)十月三日、長野師範学校および附属小学校校庭でおこなわれた大会では、後町・小諸・松本各小学校が最優勝者となった。大正後半になって野球はますます盛んになり、大正十三年九月の大会では、前年優勝の朝陽小が優勝し、十四年四月六日の北信連合野球大会(後町小学校主催)では、後町小が優勝している。この師範学校主催の連合野球大会は一時中断したが、長野市教育会が主催となって復活し、十五年十月二・三日、善光寺平小学校野球大会として城山グラウンドで開催され、朝陽・古牧・後町・保科・松代・小布施・七二会等の各小学校が参加した。

 中等学校連合運動会は、体育の目的だけでなく、精神的訓練の意味もふくまれ、競技会では庭球・野球をはじめ、撃剣・弓術・柔道もおこなわれていた。また、長野・松本・野沢等の各中学と長野師範学校との対抗戦も定期的におこなわれ、大正三年十月十七日長野師範学校主催の中等学校連合運動会には、長野中・長野商業・松本中・松本商業・上田中・小県蚕業・長野師範の八校が参加した。

 しかし、この大会を最後に連合運動会は廃止されることになる。その理由は、「野球弊害説」にあった。①運動量が多いため学業をおろそかにするものがでる。②学業を軽くみて怠惰・不節制の習慣を身につける。③少数の生徒のために多数の生徒の運動に制度を加えるのはよくない。④課外活動が重視されるあまり正課の体操(剣道・柔道等)が軽視されるのはよくない。⑤応援がお祭り騒ぎで軽はずみになる。⑥勝敗にこだわり教育上好ましくない。⑦運動部の運営費・大会参加費がかかりすぎる。⑧大校に有利で小校の意気が落ちる、などをあげている。これにたいし「連合運動会肯定論」は、①生徒の士気を振興し活気ある校風を樹立し学業の振興につながる。②廃止は生徒の運動にたいする興味・関心を減衰し、体力・活力の減退をもたらす。③廃止は生徒の精力がよくない方向に使われる危険性がある。④運動を訓育上も重視することがたいせつ、などを主張したが、弊害説に押しきられた(『長野県スポーツ史』)。


写真144 大正11年野球大会で優勝した朝陽小学校野球チーム (今井恒至所蔵)

 連合運動会は大正六年には復活するが、野球・庭球は除かれ、陸上競技が中心であった。中等学校の野球の中心は、朝日新聞社主催の全国中等学校野球大会出場権獲得の競技大会へと移っていった。長野師範学校の活躍が目立つようになり、大正五年八月北陸代表として、大阪市豊中グラウンド(十三年から兵庫県甲子園に変わる)での全国野球大会に出場し、その後も八年まで甲信大会で優勝して全国大会に連続出場(七年は米騒動のため中止)し、八年には全国準優勝をとげている。大正後半になって、長野師範のライバルとして台頭してくるのは長野中学と長野商業であり、大正十年には長野中学が、十四年には長野商業が甲信越大会(十二年から)で松本商業をやぶり、全国大会へ出場している(表93参照)。


表93 全国中等学校野球大会出場校

 青年団の野球も地域のなかへひろがっていった。松代地区の青年野球は盛んで、明治四十年代には松代と屋代の野球戦が繰りかえされ、海津倶楽部・林友倶楽部等の社会人倶楽部チームが活躍していた。社会人の野球がとくに盛んになったのは、第一次世界大戦のころからで、大正九年十月二日から、信濃毎日新聞社主催の第一回連合野球大会(第二回連合庭球大会併催)が城山グラウンドで開催された。城山・権堂・吉田・飯綱・秋葉・川中島等の三四チーム六〇〇人が参加し、真田倶楽部が優勝している。


写真145 大正15年にできた城山の市営球場 観覧席はネット裏だけ
(『写真にみる長野のあゆみ』より)

 農村の野球熱も高まり、大正八年八月二十三日の『信毎』によれば、上水内郡西山部新町では「負けたら村へ帰るな。そのかわり優勝旗を獲得して凱旋(がいせん)した暁には、町が主催で祝賀会を挙行し提灯(ちょうちん)行列をおこない、氏神に勝利の礼詣りをおこなう」約束をしたほどである。

 連合野球・庭球大会は、大正十一年の第三回大会から庭球が分離され、県下連合青年野球大会となって開催され、二四チームが熱戦を繰りひろげた。大正末期の青年団野球は、関東大震災の影響で大会参加チームは減ったが、日常練習熱心な質の高いチームの時代になる。大正十五年の大会では、長野みすずが優勝している。この大会は、昭和三年(一九二八)には全信州青年野球大会へと展開されて、七年の「野球統制令」までつづき、社会人野球の中心となった。

 庭球の普及に中心的役割をになった長野高等女学校(以下長野高女)は、明治四十年代になっても積極的に競技会を開き、飯田・上田・松本各高等女学校を招いて連合高女庭球競技会をおこなっている。大正期になっても、庭球競技の底辺づくりの役割を果たした善光寺平小学校女生徒連合庭球大会(長野高女主催)は盛況で、大正四年十月三日の大会では、城山・後町・鍋屋田・三輪・吉田・古牧・若槻・稲荷山・坂城・飯山・岩村田・小諸の各小学校および長野高女一・二年生が参加し、岩村田小学校が優勝した。


写真146 県商品陳列館(現信濃美術館)東側のテニスコートで県下女子庭球大会(写真記録『昭和の信州』より)

 中等学校庭球の発展を推しすすめた県下中等学校連合運動会は、大正三年に廃止され、六年には復活するが、野球・庭球は除かれたため、これ以後、庭球競技会の中心は、社会人や女学生を対象とした各種の大会へと移っていった。大正八年五月二十四日、信濃毎日新聞社主催第一回県下連合庭球大会が長野師範と長野中学コートで開かれ、南北佐久・小県・更埴・上下水内・諏訪・東筑摩・南安曇・長野・松本・上田の三市一〇郡にわたり、官吏・会社員・実業家などの社会人・学生あわせて七八組が参加した。この参加数は日本での新記録となり、長野の熊澤・塚田組が優勝した。

 翌九年十月には、第一回連合野球・庭球大会(庭球は第二回になる)として、野球と同時開催の大会となり、城山グラウンドでおこなわれた。十年第三回は、長野師範・長野中学・長野商業の三コートで、十一年第四回には、県会議事堂・長野師範・長野中学・長野商業各コートで八回戦をおこない、松本の北折・林組が城山の馬場・山口組をやぶっている。

 大正末ころになると、女学校・中等学校は、全国大会を目指して技を磨くようになる。大正十三年八月大阪濱寺でおこなわれた全国女学校庭球大会では、長野高女仁科・田中組が一回戦滋賀女子師範に大勝し、決勝では愛知淑徳高女に接戦の末やぶれたが、オリンピックに参加するようすすめられるほどであった。十三年八月十六日、東京高等師範でおこなわれた第一回全国中等学校軟式庭球選手権大会では、長野・上田・諏訪各中学等が参加し、長野中学和田・田中組は五回戦まで進んでいる。

 大正十三年九月二十一日、全県レベルの女子大会では初の第一回全信州女子庭球大会(信濃毎日新聞社主催・長野高女後援)が長野市で開かれ、参加資格は、①県下女子中等学校生徒、②県内各学校女子職員、③尋常小学校卒業以上の県内一般女子となっていた。

 男子の全県的な全信州男子庭球大会(信濃毎日新聞社主催)も実施されるようになった。大正十五年十月十七日、長野・松本・上田・伊那各地区の予選を勝ち抜いた代表三八組が二十四日の本大会に出場し、長野習田・森組が優勝して、信濃毎日新聞社大カップを授与された。

 このように、庭球が広い社会層に普及していくなか、大正十三年十一月十六日、県庁職員の高嶺(たかね)倶楽部で長野庭球倶楽部の発会式がおこなわれ、議事堂コートで記念の紅白試合が実施された。しかし、黄金時代を迎えた庭球ではあるが、大会が多すぎ、日程の行きづまりで満足な練習もできないうえ、勝つことのみにこだわって技が発達していない点などが問題になっていた(『長野県スポーツ史』)。