大正三年(一九一四)十月二十三日、金栗四三は陸上競技の巡回指導のために長野師範学校に赴任した。金栗は、第五回オリンピック・マラソンの代表選手であった。次代をになう少年たちの指導にあたる教師には、スポーツの重要性を理解して、実技力をつけて選手育成にあたってもらいたいというねらいであった。金栗は大正九年二月十四日東京・箱根間駅伝競走を実現し、世界における駅伝競走の創始者である。直接指導を受けた徒歩部は、四年十月二十六日県下小学校連合長距離競走を開催し、城山・附属・松代の各小学校ほか九校三六人が参加した。長野師範校庭を出て、西町・大門町交番・岩石町・新町の坂・吉田神社の森を経て帰ってくる一里半(約六キロメートル)のコースでおこなわれ、一位から三位までを松代小学校が独占した。
大正期前半には、各校独自の長距離走(マラソン)大会が、競うようにおこなわれている。『信毎』によれば、大正四年十一月長野中学の第二回全校マラソンは、三年以上が三里(約一二キロメートル)、一・二年が一里半でおこなわれた。翌年五月には六〇〇人が参加し、もっとも速いものは二里(約八キロメートル)を四一分で走っている。十月には、ブランド薬師往復のきついレースもおこなわれた。大正四年十一月長野師範の第四回長距離競走では、第一決勝点中津小学校(川中島昭和小)、第二決勝点八幡神社(更埴市)の二組に分かれて一一八人が参加し、第二決勝点までは五里(約二〇キロメートル)であった。大正五年五月長野商業の全校長距離競走は、須坂町農学校までの三里一六町(約一三・七キロメートル)でおこなわれ、白シャツ・足袋(たび)姿の走りを、「須坂街道に白鷺(しらさぎ)の一連」という見出しで地元新聞は報道した。
大正六年十月十五日には、同三年に廃止された県下中等学校連合運動会が復活している。中心は従来の野球・庭球から陸上競技に移り、長距離走だけでなく、現在あるようなさまざまな種目もおこなわれるようになった。十三年十月には、長野師範が主催して第一回県下小学校陸上競技会を開き、底辺拡大にも寄与している。
大正十四年十月十日には、明治神宮大会予選を兼ねた連合青年団体育大会が、城山公園トラックで開かれ、陸上のほか、柔道・剣道・弓術・相撲もおこなわれた。陸上競技の中等学校以外への普及もはやく、昭和二年(一九二七)都道府県対抗の明治神宮体育大会で、長野県は青年団の部で準優勝している。
長野市の水泳は、おもに日本海や裾花川・野尻湖などでおこなわれていた。長野は海なし県のため、夏期には柏崎や谷浜での遊泳演習(写真148)が盛んであった。明治四十三年七月には、長野師範生が恒例の演習を実施し、大正四年には附属小学校が八日間の合宿を、経費四円五〇銭でおこなっている。なお、海水浴の効用を重視し、大正十三年七月には長野市の体質不良児童五〇〇人が、看護婦付きで谷浜へでかけている。
市内では、裾花川での水浴びが盛んであった。崖下・龍宮淵・上藤橋・下藤橋・大口・白岩・大黒岩がおもな水泳場(図16)であるが、危険なところが多く、上藤橋と白岩が児童の水泳には比較的よいとされていた。しかし、大正四年七月十六日には、鍋屋田小学校五年生が、教員引率にもかかわらず、白岩で水泳中溺死する事故がおこった。長野市は、慰謝料一〇〇円を両親に贈っている。これ以後、長野市教育会は、飛びこみ台・脱衣棚・危険区域表を設置するなど設備を充実させ、見張り番を常設した。監視にあたったのは長野師範・長野中学・長野商業の生徒たちである。大正十三年ころには、市は上藤橋と下藤橋の二ヵ所を小学生の水泳場と定め、「白岩は魔の淵である」として水泳を禁止した。なお、妻科の飯島豊によれば、藤橋とは、対岸の石材・材木・氷を採るために作られた「藤つるの橋」のことだという。水難事故のさいは、水府流とよばれる水泳の名手であった西長野の渡辺家に連絡され、捜索がおこなわれた。長野高女の渡辺敏校長と長野商業教頭渡辺信夫親子の家であり、この水府流太田派は、信州初期水泳の主流となっていた。
水難事故防止のための施設としては、城山水浴場が大正五年六月十八日には開場していたが、泳ぎが得意なものは裾花川へ、自信のないものは城山の水泳場へ飛びこむといわれ、川のなかに堰(せぎ)をつくって水をためる「長商プール」も裾花川につくられている。
大正末期になっても、裾花川水泳場は繁盛していた(写真149)。十四年七月二十五日付け『信毎』では、一〇〇〇人を超える大小河童(かっぱ)たちのようすを、「上藤橋、朝太陽が上るころからゾロゾロと集まってくる七ツ八ツから一三、四歳までの小河童たちは、天晴(あっぱれ)の達人気取りに水にひたって一日を暮らす。男の子、女の子、甲羅を乾かすもの、砂の王国を築くもの、水をかける、泥つぶてを投げる、溺れる心配のないだけまったく自由な水の世界だ」と書き、下流では「華やかすぎるほどの婦人プール」もあったと伝えている。
武芸の一つであった松代藩の水練は行輝流とよばれており、明治にはいっても、主として千曲川赤坂橋付近でおこなわれ、明治三十四年からは松代青年会の講習会として伝わった。松代町では、大正二年ころから千曲川で青年の競泳大会が盛んにおこなわれ、大正十一年七月十日の水泳講習会(青年会主催)には、東福寺村千曲川に一三四人が集まり熱心に受講している。水泳がさまざまな年齢層や地域に普及するなか、大正八年九月五日裾花川藤橋水泳場で、長野市教育会主催長野水泳大会が開かれている。水府流太田派の式泳、「水心一致」の水書や小学生の宝さがし、競泳等がおこなわれ、市民水泳大会の様相を呈していた。
野尻湖もまた、長野市の水泳場の一つであった。明治四十四年から始まった長野商業の野尻湖水泳講習会には、長野中学からの参加者も多く、大正七年に初参加した荻原俊雄は、九年に長野中学水泳部を設立(長野商業水泳部は大正七年)している。このころから長野商業・長野中学両校の講習会がおこなわれるようになり、同九年の長野中学講習会で、抜き手以上のスピードがでる外国泳法(クロール)がはじめてみられた。以後、競泳大会ではクロールが主流になった。
大正十三年八月五日、信州初の第一回県下中等学校水泳競技会(信濃毎日新聞社主催)が諏訪湖で開かれた。全種目自由型の大会で、長野商業と長野中学が各種目で圧勝している。十四年八月十三日、野尻湖県営プールで開かれた全信州競泳大会(同前主催)では、あらたに背泳・胸泳(平泳)が加わり、初の女性出場で、三輪実業補習学校の原里江(一六歳)が二位に入り話題を提供した。また、二〇〇メートルリレーに出場した野尻游泳協会チーム(のちに野尻湖游泳協会とよばれる)は長野商業・長野中学のOBチームであった(『長野県スポーツ史』)。