ウィンタースポーツの普及と登山の大衆化

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明治四十四年(一九一一)に、オーストリアのレルヒ少佐からスキーの訓練をはじめて受けた高田歩兵連隊長らは、民間人対象の講習会を開いた。大正元年(一九一二)十二月には、長野師範の金井嘉金太ら生徒三人が受講して、これらの受講者がスキーをひろめていった。金井は大正二年二月十一日に開催された第一回全国スキー大会(日本スキー倶楽部主催)のマラソン競走で、三〇〇〇メートルに出場し三位に入賞した。市民が直接スキーのようすを見ることは少なく、明治四十五年には千歳座(現相生座)で、越信スキークラブのスキー実技が活動写真で紹介されている。

 大正二年二月二日、城山公園共同墓地西側斜面では、信濃毎日新聞社主催のスキー実習会が開かれ、観客一六〇〇人が見守るなか、師範生徒一三人が実演している。同年には、長野師範帯刀・末、鍋屋田小倉石、城山小宮下の各教員や長野師範生二十余人によって、日本スキー倶楽部長野スキー支部が設立され、長野市長が支部長となった。

 大正前半は、中等学校各スキー部の登山スキーが盛んで、大正四年二月長野商業スキー部は、午前六時半芋井村大久保を出発し、飯綱神社を経て午後六時に湯福神社に到着している。長野師範スキー部も飯縄山登山スキーや、一泊二日の戸隠スキー登山を実施している。六年二月一日付け『信毎』には、飯縄原において一本杖スキーをする長野師範生の写真が掲載されており、十五年十二月には、同所で部員七〇人がスキーの猛練習をし、スキー熱の高まりを見せていた。

 本格的な競技スキーの大会は、大正十五年二月十三・十四両日、飯山で開かれた。飯山スキー協会主催・信濃毎日新聞社後援の信越スキー大会であり、飯山鉄道は枚数限定で、飯山・豊野間五割引き乗車券を発売している。大正末期からはスキー場の開発がすすみ、スキーが各地に普及していく。それを支えたのは私鉄の発達であり、長野電鉄の開通(大正十四年七月河東線中野・木島間開通し、屋代まで全通、昭和二年四月信州中野・湯田中間、三年六月長野駅乗りいれ)は、湯田中の上林、野沢温泉方面のスキー場を盛んにしていった。

 明治末から大正期にかけて、長野市民のスケート中心地は、善光寺北側の千鳥ケ池スケート場(氷滑場)であった。それは明治四十三年二月に、諏訪湖研究者として有名な氷滑会幹事橋本福松が、長野付近のスケート場調査をし、千鳥ケ池が最適場であると認めたことによる。このころすでに諏訪出身の長野師範生が、毎日放課後千鳥ケ池でスケートをしていた。使われていたスケート靴は、カスガイ式スケート(げたスケート)とよばれ、三〇銭から五〇銭という安さのため、外国輸入品(五円から一〇円)に比べ、より広く一般に使われており、スケートの普及に役立っていた。


写真150 大正10年ごろ校庭リンクでのげたスケートによる練習
(鍋屋田小学校所蔵)

 明治四十四年一月二十二日、千鳥ケ池で長野スケート倶楽部の発会式と競技会が開かれ、諏訪のスケート名選手田中克巳が模範演技をした。競技種目は、四〇〇ヤード・二〇〇〇ヤード競走(一ヤードは約九一・四センチメートル)、二人スケーティング・スプーンレース・提灯(ちょうちん)競走などであった。大正十一年には、長野青年会主催の第一回長野スケート大会もここで開かれた。

 千鳥ケ池以外のスケート場としては、長野市小学児童のための校庭リンクが登場する。大正十二年山王小学校裏に、借地料七〇円、約五〇〇坪の田んぼスケート場が設置された。また、市教育会・青年会・市当局によって、夏はスイミングプール、冬はスケート場となるコンクリート製のプール・スケート場も研究されていた。大正十四年二月には、型滑り(フィギュア)のスケート大会日本チャンピオン諏訪の小澤はじめ五人が、鍋屋田小学校リンクで模範の妙技を披露している。長野高女にもスケート場ができて、女性へのひろがりの先駆けとなった。スケートは女子の身体組織等からみても、適切な平均・全身運動であるといわれて盛んになっていく。

 長野市連合青年会では、大正十五年一月千鳥ケ池畔に電灯をつけ、スケート場を昼夜公開することにした。市内三中等学校(長野中学・長野商業・長野師範)スケート部員および長野スケート倶楽部が協力して設備し、滑走時間は午前四時から同一〇時までと、午後四時から同一〇時までと延長されたのである。大正末期の中等学校一年生のスケート可能者は、『諏訪中学校学友会誌』によれば、諏訪九五・三パーセントにたいし、飯山六六・七、屋代四四・六、長野四九・三パーセントとなっている。

 大正十五年長野体育協会(会長長野市長)が結成された。この協会が長野市民の体育の向上に大きく貢献していくことになる。

 大正期には、各学校の集団登山が盛んになっている。長野高女では、伝統の集団登山が多方面に発展しておこなわれた。明治四十四年から毎年夏期休暇に実施されていた富士登山は、大正三年七月第四回を迎え、上級生・卒業生の有志二十余人でおこなわれている。渡辺敏校長も付きそい、鰍沢泊、富士川くだり、大宮泊、登山に入り八合目泊、登頂後須走泊、諏訪泊のあと帰校という登山旅行であった。恒例の戸隠裏山登山も大正期につづいており、大正十三年七月には下級生が浅間山、三年生以上は八ヶ岳へ登山し、翌年七月には希望者十余人が妙高山登山を決行している。


写真151 大正3年7月25日長野高等女学校生徒の富士登山
後列中央は渡辺敏 (昭和小学校所蔵)

 通明小学校(篠ノ井)では、大正十一年七月二十二日、尋常科五年生以上男女二二〇人が姨捨駅から冠着登山をし、頂上で夜営をしている。夜は天体星座の講演を聴き、早朝ご来光を拝し、上山田温泉にくだって入浴してから帰校した。十二年八月、長野師範附属小学校は、戸隠で山間教室を実施している。中社の宿から山奥に入りこみ、顕微鏡なども使って自然観察・調査をして一日を過ごし、夜は宿で創意工夫した童話劇を催すなどの学習活動をした。同十二年に秩父宮が日本アルプス登山をしたことなどの影響で、登山熱が一般に高まり、同年八月一日から十五日までの登山者数は計六三四二人に達し(表94)、年間ではいちじるしい数に上ると予想された。うち、戸隠山は三四九人である。


表94 大正12年8月1日から15日の登山者数

 自然科学研究団体信濃博物学会(明治三十五年組織)は、『信濃博物学雑誌』の負担増から、大正二年春三九号発行を最後に自然消滅している。この学会にかわって研究団体の中心になっていったのは、明治四十四年八月松本女子師範で生まれた信濃山岳研究会である。同会が大正元年に登山隊を募集したところ、学生を中心に東京など各地から希望者が集まっている。


写真152 明治44年6月川中島青年たちによる戸隠山登山帰途 城山での記念写真
(宮下八紘所蔵)

 登山の大衆化に大きく貢献したのは、大正二年に市販された陸軍参謀本部陸地測量部発行の五万分の一地図である。明治末までに測量が終了しており、各地元猟師らの協力を得て完成にいたっている。私鉄の発達も大衆化の一因となり、大正五年夏の松本・大町間信濃鉄道全通も北アルプス登山に大きな影響を与えた。大正中期には長野高女校長河野齢蔵が、東久邇宮を案内して上高地から槍ヶ岳に登頂するなど登山の普及活動で活躍していた。各地で案内人組合結成や山小屋建設が進み、ピッケル・アイゼン・ザイルといった近代登山のいでたちがみられるようになった。

 大正八年七月十五日松本市公会堂で、信濃山岳会の発会式がおこなわれた。この会は信濃山岳研究会が発展的に解消してできたもので、昭和十一年(一九三六)解散まで、山岳関係の中心的存在として活発な活動をした。会長は松本女子師範矢澤米三郎、副会長は河野齢蔵である。研究部・登山部・会報部・講演部を設け、①山に関するいっさいの研究調査、②一般登山者へ便宜をはかる事業、③山案内人・人夫の風紀改善などをおもな活動内容とし、登山図・案内記・登山心得の配布や登山口の旅館と連絡をとる通信機関も設けていた。大正十二年から『日本アルプス登山要項』を発行し、会員には大正十五年から『信濃山岳会報』を配布した(『長野県スポーツ史』)。