小屋掛けから常設劇場へ

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善光寺では、縁日やご開帳などの人出が多いときは、境内に何軒かの見せ物小屋が出た。境内には常設的な揚小屋があったが、その一つは鐘楼近くの常磐井座であった。明治天皇行幸のとき、善光寺の東から城山の高台に通じる道と橋がかけられ、その名前が「みゆき橋」とよばれた。常磐井座はこの橋の近くに移転して「三幸座」と名乗った。城山館と同時期の明治十九年(一八八六)ころの創設といわれている。三幸座と対抗した千歳座(現相生座)は、明治二十五年十一月に鶴賀村権堂に設立されたが、隣の秋葉神社はこのとき現在地に移転した。

 明治末年の長野市民の娯楽は、昔からの芝居、箏三弦、旅回りの歌舞伎、芸者の踊りなどのほかに、新たに活動写真(映画)が加わった。明治末の長野市には、三幸座、千歳座、東座などの劇場があり、周辺の吉田町や松代町にも芝居や演芸をおこなう小屋があった。長野市の明治三十九年の芸人数は、『長野繁盛記』によれば遊芸師匠一人、遊芸稼人二二人、俳優三四人、芸妓一〇九人、小芸妓四人と記載されている。ここでいう遊芸とは劇場の役者タレントというより、大道芸人の性格が強いが、俳優とは芝居小屋で演じる人たちであり、かなりの役者稼業のものたちがあった。しかし、これらの役者は、三幸座や千歳座の専属の役者ではなく、善光寺境内の揚小屋やその他の劇場でも演じていた。


写真153 城山にあった三幸座
大正4年7月芸術座の公演はここでおこなわれ松井須磨子は「サロメ」の主役を演じている
(『写真にみる長野のあゆみ』より)

 演芸娯楽の内容については、明治四十二年の三幸座では三月に、「石本一雄一座」の公演をおこなっている。演目は「名誉の金杯ほか」であったが、石本は関西演劇界の寵児(ちょうじ)で人気の俳優であった。三幸座は九月には「活動写真」を興行しているが、これは市民に人気を博したので、新聞に報道された。内容はフランスのニースやリオン市の景色や生活の紹介、「佐倉宗五郎の一代記」などであった。

 権堂の千歳座は芸妓のおさらい会のほか、七月には「松風村雨」という映画を上映したが、この内容は東京の本郷座の「木下吉之助一座」の芝居を写真に撮ったものであった。もちろん無声映画で弁士の話術で観客を引きつける仕組みであった。九月には桃中軒如雲一行の浪曲が大受けで、如雲の「堀部安兵衛高田馬場の仇討」が新聞で評価されている。

 能楽、西洋音楽は主として蔵春閣で興行された。四十二年八月四日には大音楽会と広告されている弦楽器の演奏会が開催された。このほかキリスト教関係では、長野盲学校への寄付目的の映画会が県町のメソジスト教会で三夜連続で開催されている。雪中のアルプスでバーナード犬が幼児を救出する物語や、ニューヨークの大火災、キリスト一代記等であった。

 大正期にはいると本格的な映画が英米から輸入された。まだフィルム代が高価であったので、ノーベル文学賞受賞作品「クオーヂス」は、大正三年(一九一四)九月二十九・三十日に信濃毎日新聞演芸部主催で、三幸座を会場に上映会が開催された。会費は特別五〇銭、普通二〇銭、生徒一五銭、児童一〇銭であった。この映画は三月に予告が出たときは千歳座で上映と広告されたが、じっさいは三幸座でおこなわれた。信濃毎日新聞社は大正四年六月にユーゴ原作の「噫(ああ)無情」を千歳座で、同年十月には主催者から協賛にまわったが「アントニーとクレオパトラ」を、同じく千歳座で上映している。