松井須磨子の長野公演

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大正四年(一九一五)四月には三幸座でイプセン作の「人形の家」が上演された。近代演劇協会の一行で、上山草人を中心に、マグダを演じる女優山川浦路など本格的近代演劇が長野市にお目見えした。長野市松代町出身の松井須磨子は、上京後坪内逍遥の文芸協会研究所に所属して女優の道を歩いたが、明治四十四年(一九一一)の帝国劇場での文芸協会第一回公演で主演女優に選ばれ、シェークスピアの「ハムレット」のオフェリア役を演じた。第二回公演の「人形の家」では主役のノラを情熱的に演じ、島村抱月に認められた。「人形の家」関西公演のころから、抱月と須磨子の恋がうわさにのぼり、両者の仲を坪内逍遥が裂こうとしたことから、文芸協会の不平分子が抱月を中心に大正二年に芸術座を旗揚げした。

 大正三年芸術座はトルストイの名作「復活」を上演した。この公演は芸術座の名声を高め、主演の須磨子の演じたカチューシャの評判は高く、彼女の歌う劇中歌「カチューシャの唄」は流行歌として一世を風靡(ふうび)した。天下の女優となった松井須磨子は、大正三年五月末に母親の住む松代町に帰郷した。五月二十四日は昭憲皇太后御大葬の日にあたり、翌二十五日の午後には松代の長国寺で皇太后の奉悼式があったが、勧業・中信両新聞社主催で、松井須磨子を招待しての晩餐会が開かれている。抱月との不倫の恋が世情に知られていたが、須磨子は故郷の名士で輝ける女優であった。五月二十八日にも松代町の名士によって松井須磨子の歓迎会が開かれている。滞在は数日におよんでいたのであり、地元に後援会のような集まりができた。


写真154 長野公演のときの松井須磨子
(写真集『長野の百年』より)

 大正四年六月二十八日には高田市(上越市)での公演の途次、ただ一人で松代町清野の実家に母親を訪問した。『信毎』はこの帰郷を記事にし、一五銭の車馬賃のガタ馬車に乗って実家に帰ったとか、何を着どんなアクセサリーをつけていたかなどを、書いている。帰郷は実家に母を見舞うだけではなく、長野公演の先乗りでもあったので、後援会の有力者を今度は人力車で訪問し、長野公演支援の依頼をした。後援会は松代町の料亭「佳月」で歓迎晩餐会を開いている。『信毎』の記事によると、酒が入ってから一後援会員が須磨子に『東京日々新聞』の抱月との恋のすっぱ抜き記事を突きつけて詰問すると、どうしてこんなこと新聞社に知れたのでしょうと、軽くかわしたと報じている。

 長野市での芸術座の舞台は、大正四年七月二日から三幸座で公演された。このとき須磨子の演じたのは「悲劇その前夜」のエレエナと悲喜劇「飯」のお市、新古典劇「サロメ」の主役サロメであった。

 大正七年十一月に島村抱月が肺炎で死亡したのち、芸術座は松井須磨子を中心に運営していくことになった。抱月には五人のこどもがあったので、須磨子は遺児の養育資金としての六〇〇〇円と香典のすべてを島村家に渡した。須磨子が中心で芸術座を守っていくこととしたが、芸術座の指導者として選んだ脚本部の楠本正雄に絶望し、また抱月への思慕を捨てることはできなかった。舞台協会と合同して芸術倶楽部(旧芸術座)としての最後の舞台を有楽座で公演した。公演が終わると芸術倶楽部は売却され、須磨子は松竹に引きとられるはずであった。この状況で須磨子は死ぬほうが幸福だと考え、大正八年一月五日に芸術座の梁(はり)で自死した。遺書は坪内逍遥、伊原青々園、兄あての三通が残されていた。彫刻家朝倉文夫は須磨子のデスマスクをとった。

 須磨子の葬儀の新聞記事を見ると、須磨子にきわめて好意的なものが多く、須磨子が遺書で望んだ抱月との合葬も、坪内逍遥や抱月夫人にも異議がないように報じられている。しかし、合葬は島村家から許されず、須磨子の墓には抱月の遺髪も納められなかったと報じられている。須磨子の骨は分骨され母親に抱かれて郷里に帰り、松代町清野の林正寺に納められた。林正寺には須磨子の碑もあり、須磨子自筆の「カチューシャの唄」が刻まれている。


写真155 林正寺境内の「須磨子演劇碑」