娯楽に映画・相撲等

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日露戦争後から活動写真が大衆の娯楽の主役に成長してきた。もちろん、伝統的な芝居や三弦は根強いファンをもっていた。無声映画と掛け芝居で三幸座と千歳座はしのぎをけずり、三銭の芝居、木戸銭無料などの価格破壊の競争をおこなった。仲裁に入る人びとがあり、一応の休戦となったが、下手な田舎芝居より上等で面白い映画がでてきた。時代が急速に発展し、演劇の質が変化してきた。

 大正期に入って映画は演劇を押しのけ、確実に娯楽の王座にのぼった。善光寺近くの豪商層が出資して、大正六年(一九一七)十二月二十五日に株式会社長野演芸館が設立された。社長は塚田嘉太郎、専務は久保田房次郎であった。この会社は長野市東之門町に演芸館を開業した。大正七年四月には善光寺のご開帳がはじまり、この会社は順調に営業を展開した。

 演芸館は大正八年に千歳座を買収して「相生座」と改称し、設備を改め四月十九日から映画館として発足させた。相生座の披露興行のために、東京日活会社は大緞帳(どんちょう)を贈ってその出発を祝した。第一次世界大戦の好景気に支えられ、演芸館と相生座の経営は順調であった。大正八年四月三十日に演芸館が火災で焼失したが、すぐに再建された。

 大正九年になると活動館が営業している。同年四月の興行は、演芸館・相生座・活動館とも「本日写真全部取り替え」という広告を出している。演芸館が土曜日は昼夜二回の興行をしている。映画は連日上映されていたのである。演芸館のフィルムは日活映画と米国映画で、喜劇には「チャプリンの新妻が出演」と広告している。相生座も同じく日活映画と米国映画であるが、演芸館の人情・喜劇路線とはちがって時代劇と西部劇的なものを上映している。活動館は泰西大活劇、堀部安兵衛の生いたちから高田馬場の仇(あだ)討ちなど相生座と同じような映画を上映している。

 第一次世界大戦後の不況と、関東大震災の余波で不景気となり、映画館の経営は苦しく、相生座の経営は日活に渡され、また演芸館に戻されるなど苦難の軌跡をたどった。演芸館は相生座の近くに長野倶楽部という西洋料理と喫茶のレストランを開業し、多角経営に乗りだした。長野市の市民のなかにレストランや喫茶を楽しむ機運が生まれてきていたのである。

 大正十三年五月一日に長野市城山公園の招魂社前でレコードコンサートが、信濃毎日新聞社主催、長野市連合青年会の後援で開催された。野外でありもちろん無料であったが、レコード鑑賞という新しい娯楽が取りいれられてきた。二部構成で第一部一八曲、第二部一四曲であった。第一部はカルメン、軍隊行進曲などの洋曲、第二部は六段、越後獅子などの日本の曲であった。

 同年十月には信濃毎日新聞社の主催で「秋期演奏会」が蔵春閣で開催された。ソプラノを歌ったのは関鑑子(かねこ)である。昭和二年(一九二七)六月には蔵春閣で関屋敏子の独唱会が開催された。長野市で個人の独唱会が開かれ聴衆が集まるという、音楽環境が育ってきた。

 娯楽の一つに、おもに裏権堂で演じられた相撲興行があった。早くは明治九年(一八七六)に鶴賀村権堂の秋葉神社境内で、東京大相撲が興行している。明治十七年には同じく秋葉神社で、梅ケ谷、高見山、友綱などの力士一六人が相撲興行している。この秋葉神社の相撲興行は恒例で、明治二十九年には小錦、朝汐ら幕内十数人が顔をそろえ、新聞は地方には珍しい回向院(えこういん)の大相撲のようだと伝えている。大正期では相撲興行が神社を離れ、純粋な興行として相生座等でおこなわれるようになった。


写真156 大正13年の湯福神社境内相撲興業番付表と大関藤ノ川と若常陸の取組図
(依田康資提供)

 神社の祭礼時におこなわれた奉納相撲(草相撲)も大きな娯楽であった。大正期になると草相撲の力士は北信地方で三〇〇人くらいといわれた。これらのしこ名をもつ草相撲の力士は、大関・関脇などと名乗り、須坂の御射山(みさやま)祭りを皮切りに、松代の皆神山、長野の湯福神社等の奉納相撲を、手当てをもらって回りあるいた。長野市吉田神社、若槻の蚊里田(かりた)神社等の草相撲にも、近在の村々から力自慢が集まり、大勢の観客で境内が埋められた。