普通選挙下の県会議員・衆議院議員選挙

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大正十四年(一九二五)五月に普通選挙法が公布され、県下においても政党や結社・諸団体などの動きがいちだんと活発になってきた。十五年二月、上高井郡下の各町村の青年団幹部が中心となって、一党一派にかたよらず、立憲政治に貢献することを目的として上高井立憲青年団を創立した。綿内村青年会は、二月二十八日に模擬国会の開催を予定し、討議題として村に冬期大学を設立することの可否、知事公選の可否、郡役所廃止にともなう郡農会の廃止の可否などをかかげた。二月二十四日、郡では未成年者に有害であるとして、開催中止命令をだした。昭和二年(一九二七)四月三日、上水内平坦(へいたん)部一〇ヵ村青年会連合も、大豆島小学校で模擬国会を開催した。首相は小坂武雄で、危険思想取締法案、長野市にラジオ放送支局を設置する建議案、海軍縮小に関する建議案などについて討論した。

 昭和二年三月、県が調査した政治結社一覧による団体と加盟人員数は、憲政会系が六一団体五万六一八人、政友会系が三六団体四万六九九八人、政友本党系が四団体二五二五人などで、県全体では一二四団体一〇万三一七四人で、加盟人員は前年度より一万四〇〇〇人余の増加となっていた。二年二月に憲政会と政友本党との提携が成立し、六月に立憲民政党が結成された。

 八月二十八日、長野市の蔵春閣で立憲民政党北信支部の発会式が、本部から若槻礼次郎の参加をえて、党員四〇〇〇人余が参集してひらかれた。いっぽう、立憲政友会県支部は、七月二十一日に支部大会と北信八州政友大会を、本部から田中義一を招いて開催した。北信八州政友大会は、政友会と政友本党へ分裂してから途絶えていたがここで復活した。無産政党では、二年三月、社会民衆党南信支部が誕生し、同月須坂町で北信支部を結成するとともに、豊野町で演説会をひらいた。また、六月には労働農民党北信支部が長野市で創立大会をひらき、委員長大山郁夫が出席した。長野署の警官多数が警戒するなかで、霜害被害者同盟組織の件、無産者新聞支持の件などが討議され、予定していた「対支那非干渉同盟」にかんする件は、臨監の警官から弁論の中止をうけ、委員会で審議することになった。

 普通選挙法施行後の県下における初めての選挙は、昭和二年九月二十七日に実施された県会議員選挙である。同年四月の県会では選挙区別の議員定数を可決した。長野市二人、上水内郡三人、更級郡二人、埴科郡一人、上高井郡二人であった。有権者数は、長野市が四七四四人から一万二一八一人へと二・六倍の増加で、他の四郡も一・六~一・九倍の伸びであった。普通選挙下の最初の選挙のため、県では選挙心得を示すとともに七月開催の市町村長会で、有権者増加にともない選挙人名簿との対照を厳密にすること、はじめて不在者投票や点字投票が実施されることへの対応、公立学校が選挙演説で使用できるようになったことにかんする注意などの徹底をはかるよう指示した。


写真1 昭和2年普通選挙法成立後の県会議員選挙の選挙事務所
(『長野県おもしろ世相史』(上)より)

 立憲政友会と立憲民政党の二大政党の出現、無産政党のはじめての選挙への参加、衆議院議員選挙を昭和三年にひかえて、県全体の立候補者数は、政友会二七人、民政党二五人、中立一八人、労働農民党三人、社会民衆党三人の計七六人で、かつてないほどの激戦であった。投票日は九月二十七日で、現長野市域では長野市が無投票、他の四郡は選挙となった。選挙の結果、政友会六人、民政党四人が当選した(表1)。投票率は最高が更級郡の八八・七パーセント、最低が上高井郡の七五・九パーセントで、県全体では七八・二パーセントであった。棄権率は二一・八パーセントで、前回の大正十二年の二倍以上の増加であった。寺尾村の場合をみると、投票率は七五・二パーセントで、村では従来にくらべ棄権者が多く遺憾であると県へ報告している。


写真2 昭和3年衆議院議員選挙の寺尾村投票所入場券


表1 県会議員選挙の当選者一覧

 無産政党では、埴科郡で労働農民党から塩入豊治が、上高井郡で社会大衆党から本藤恒松が立候補した。塩入は屋代町(更埴市)に選挙事務所をもうけ、日本農民組合各支部、同連合会と関係のある小作人組合一〇団体の支援をえて、選挙応援会を組織して運動を展開したが、八八〇票で落選した。本藤は二二〇〇票余を獲得し、わけても綿内・井上村では投票数一四九〇票のうち六五一票と四三・七パーセントをえて善戦した。県では、今回の選挙でとくに注意を要するのは、無産政党の進出状況であるとし、当選者はなかったが将来性があることが認められると分析している。

 衆議院議員選挙の選挙区は大正十三年五月の第一五回までは小選挙区制であったが、昭和三年二月二十日実施の第一六回から中選挙区制となり、県下は四選挙区となった。長野市・上水内郡・更級郡・上高井郡は第一区に属し定員は三人、埴科郡は第二区に属して定員は三人であった。三年一月、県は選挙をむかえるにあたって、市町村長の辞職による欠員を避け、任期満了の場合は至急後任を定めて、選挙の執行に支障がでることのないように通牒(つうちょう)した。また同月、前年実施の県会議員選挙で、棄権率が高かったことから、棄権防止を市町村民に徹底するよう通牒している。県棄権防止委員会では、二月九日に市町村にあてて、「普選々々とさわいでおいて今更棄権ができようか」などの標語をおくり、棄権防止をよびかけた。


写真3 昭和3年2月24日付『東京朝日新聞』
(矢沢彬所蔵)

 第一区では、民政党から松本忠雄・小坂順造、政友会から山本慎平・春日善之助の四人が立候補し、第二区では、民政党から山辺常重、政友会から篠原和市・春日俊文、中立で小山邦太郎の四人がそれぞれ立候補した。第一区・二区では無産政党からの立候補者はいなかった。公立学校が演説会場に使用できるようになったことから、第二区に所属した寺尾村の場合をみると、二月八日に小山邦太郎が寺尾小学校を会場として演説会をひらき、村民二五〇人余が参加した。二月十九日には篠原和市がやはり寺尾小学校を会場に演説会をひらき、村民一五〇人余をあつめている。投票翌日の二月二十一日付『信毎』は「積まれ行く票、一票に場内の昂奮は高まる 県下各選挙区の開票場の情勢」の見出しのもとに、開票状況を報道した。投票の結果、一区では松本・小坂・山本、二区では篠原・小山・山辺が当選した(表2)。全県の党派別当選者数は、民政党六人、政友会六人、中立一人で、投票率は八八・六パーセントであった。


表2 衆議院議員選挙の当選者一覧

 第二区で当選した小山邦太郎は後援の南北佐久郡、埴科郡の民政党幹部の意向もあって、昭和四年十二月に民政党に入党している。五年二月の衆議院議員選挙では、政友会の県支部長の小川平吉が私鉄疑獄事件で逮捕されたこともあって県下の政友会は大きな影響をうけ、民政党九人、政友会四人という結果であった。一区・二区では七年二月の選挙まで民政党四人、政友会二人の勢力分野に変化はなかった。

 昭和六年九月に実施された県会議員選挙では、五年の衆議院議員選挙の状況と同じく、民政党二五人、政友会一九人と民政党の勝利に終わった。九月三十日付の『信毎』は、自由党以来の政友王国は完全に転覆し、長野県会の歴史上はじめての新紀元を記録したと報じている。なお、この県議選挙には、社会民衆党、全国労農大衆党などの無産政党から一五人が立候補し、上伊那郡区で全国労農大衆党から出馬した野溝勝が当選し、無産政党からはじめて選出された県会議員となった。現長野市域では、長野市で野溝弘、上高井郡で本藤恒松が社会民衆党から立候補した。埴科郡では若林忠一が、不景気のなかで農民の生活は破産状態であるのに負担はすこしも軽くなっていないとし、資本家・地主の政治支配とたたかうことをかかげて全国農民組合県連合会から立候補した。しかし、三候補の得票はふるわず、いずれも落選している。