普通選挙下最初の長野市会議員選挙は、昭和三年(一九二八)五月十一日に告示され、六月一日に投票がおこなわれた。有権者数は前回の大正十三年(一九二四)の九六一六人から一万三一三九人となり、約三七パーセントの増加であった。定員三六人にたいして、民政党、政友会、中立から合わせて計五五人が立候補した。『信毎』は、「かつてないほどの乱立で、いままでのような緩慢な選挙戦術では、当選圏内にこぎつけないため、各候補者は必死である」と報じている。また、五月二十四日には、選挙費用が一人三〇〇円に制限されたため、言論戦やポスターに思うように費用がかけられず、張りだされたポスターはほとんどが手書きであるとの記事も掲載されている。投票の結果、新人二二人、前職一四人が当選し、前職のうち六人が落選して世代交代がすすんだ。党派別当選者は、政友会一三人、民政党九人、中立一四人であった。
いっぽう町村会議員選挙は、昭和四年の三月から四月に集中して実施された。県下の有権者数は、それまでの二四万六〇〇〇人余から三二万七〇〇〇人余へと約三三パーセント増加し、人口一〇〇人中の有権者の比率も、一五・二パーセントから二〇・一パーセントへと高まった。選挙が間近にせまった二月二十日、松代警察署から埴科郡内の各町村にあてて、「町村会議員選挙心得」を有権者へもれなく配布して、趣旨を徹底したいので、印刷希望枚数のとりまとめを依頼する通知がだされた。選挙心得には、戸別訪問の禁止、電話での選挙運動の禁止など選挙運動の注意事項や罰則などが記載されていた。
更級郡川柳村の村会議員選挙は、昭和四年三月七日に実施され、普通選挙下での県下はじめての町村会議員選挙となった。立候補した新人八人のなかには自作兼小作者がおおかった。また、十三日投票の同郡西寺尾村では、小作人組合から立候補した二人が、地主より高得票で当選した。同村ではそれまで千曲川の東と西の地区で六人ずつ同数の議員を選出して地域間の均衡をたもってきたが、この選挙では川東五人、川西七人となった。小作組合からの代表者選出とあわせて、普選による新しい流れとなった。上水内郡小田切村は、郡のトップをきって三月二十二日の投票であったが、立候補者の七割は青年層となっており、郡下各町村でも青年の進出がめざましく、はげしい選挙戦が予想されていた。
昭和四年四月四日、『信毎』は、更級郡下二四ヵ町村のうち一四ヵ町村の投票が終了した時点での状況を報道した。町村別の無産派からの立候補者は、西寺尾村三人、中津村一人、小島田村一人、東福寺村五人、更級村(戸倉町)一人、稲荷山町(更埴市)一人の計一二人で、党派別では小作組合を母体とするもの一〇人、旧労農党一人、社会大衆党一人であった。無産派の候補者は、いずれも文書戦・言論戦を展開し、激戦をくりひろげた。当選者は、西寺尾村二人、東福寺村三人、更級村一人の計六人で、小作争議のさかんな地区での高得票当選がみられ、いままでになく多数の小作組合代表を村政に送りだした。更級郡の町村会議員選挙は、十二月に一ヵ村を残すだけとなったが、党派別議員数を前回の大正十四年の結果と比較すると、政友会が一六二人から一六〇人、憲政会(昭和四年は民政党)が一三五人から一七〇人、政友会系の中立が四〇人から〇人となって、普選下において民政党の支持者が増加して、政友会と民政党の勢力が逆転した。
昭和四年の町村会議員選挙では、信濃同仁会から全県で三〇人余が立候補した。現長野市域でも信濃同仁会の立候補者が、村内から幅広い支持をあつめて当選している。十月に上田市公会堂で、同仁会関係の市町村会議員の懇談会をひらいた。懇談会では、各議員の当選順位・得票数などの報告、選挙戦当時の経験談や市町村政にたずさわった感想の発表などがあった。五年一月の次回懇談会では、同仁会役員と議員で会を組織すること、立候補のなかった地域ではつぎの機会に立候補できるよう準備をすすめることなどを申しあわせた。普選下において従来とはちがった状況が生まれてきた。
昭和四年九月、県地方課は四年になって実施した県下の市町村会議員選挙の結果をまとめた。「無産階級の進出と有産階級の後退は共に当初予想された程のスピードを示していない」としながらも、労働者・小作人の議員が前回より増加し、小作人団体から出馬したもの二七人、労働者団体から出馬したもの九人が当選したことにも注意をはらっていた(『信毎』)。また、新たにおこなわれた点字による投票では八四人が投票した。普通選挙制度のもとで、わずかずつではあるが障害者へも選挙権が拡大していった。
昭和五年四月、長野市会は丸山弁三郎市長を三選した。四月十六日付の『信毎』の「評論」は、「長野市の財政規模は年々膨張し、市民にとって耐えがたい負担になっているが、県立図書館、女子専門学校に巨額の寄付金を支出し、さらに何ら見込みのない善白鉄道にも多大な補助金を投入しようとしている。今回の市長選挙では、行きづまった市財政をどう打開するか、真剣に検討する機会に接したが、丸山市政の継続を選んだことで、長野市政は新しい気分に生き得ずして、依然として停滞する雰囲気中に低迷しなければならないことになった」と批判している。
昭和七年六月一日の市会議員選挙の結果、民政党一六人、政友会一五人、中立五人が当選した。六月十六日の市会議長選挙は、民政党派の諏訪部元助と政友会派の船坂恒久のあいだで争われ、諏訪部が当選した。この議長選挙をめぐって、複数議員への買収がおこなわれた(この件は、昭和九年四月の市長選挙のさいの買収事件の取り調べのなかで発覚)。丸山市長の任期は九年四月二十五日に満了するために、同年一月ごろより民政党派は、丸山市長を財政的手腕に欠け不適任であるとして、新市長に七沢清助をおす動きを活発化させた。いっぽう、市会のなかには、①丸山市長再選説、②非常時における市政刷新を目標に実力のある人物を起用すべきであるとする説、③市会議員中から適任者をあげ後任市長とする説、④市内の徳望家を推薦する説、などがあった(『信毎』)。
丸山市長の再選派は、政友会、中立派の一部と松本忠雄代議士を支持する民政同志会の一部で形成され、非再選派は、民政倶楽部、水曜会、中立派の一部、民政同志会の一部、再選の反対をする政友会の一部で形成され七沢清助を市長候補にしていた。民政倶楽部は市長選をめぐって分裂状態におちいり、政友会は一部議員が会の方針にしたがわなかった。三月二十七日には、区長会が丸山市長再選を賛成多数で決議し、四月十九日には城山の蔵春閣で市民大会をひらき、一致団結して丸山市長の再選を実現すること、市民の総意を無視する市会議員の反省をうながしその行動を監視すること、を決議した。これにたいして、非再選派の議員は二十三日、市役所において、丸山市長が就任して一二年を経過するが、市の財政問題もふくめ市政が停滞しているので、新市長を迎えて人心を一新する必要がある、とする声明書を発表した。同日には水曜会所属の議員一人が湯田中温泉から群馬県前橋市方面へ拉致(らち)されるという事件まで発生した。
四月二十五日、市会でおこなわれた市長選挙の結果、七沢清助一八票、丸山弁三郎一七票、白票一票で七沢が新市長に当選した。翌二十六日、長野検事局は市会議員の拉致事件の取りしらべを開始した。事件を調べていく過程で、市長選挙にからむ贈収賄事件、中御所を通過する国道一〇号の信越線踏みきり跨線橋(こせんきょう)の架設工事にともなう、中御所区長と地元選出議員による市会議員の買収工作や、二月に実施された貴族院の多額納税議員補欠選挙をめぐっての贈収賄事件が発覚した。九月までに贈収賄に関係した市長再選派・非再選派の両派あわせて八人と市会の浄化を訴えた一人の計九人が市会議員を辞職した。また、五月一日に就任した七沢市長は、この混乱の責任をとって七月十二日に辞任した。丸山前市長も六月に、七沢市長が勇退する場合は市長に立つ意思がないことを表明した。激しく争った両者がしりぞいて、ふたたび新市長問題が浮上した。政友会派・民政党派の対立が再燃したが、紆余曲折(うよきょくせつ)をへて十一月三十日の市会で、中立派の藤井伊右衛門が満場一致で新しい市長に選出され、十二月七日就任した。首長選挙は有権者の直接選挙でなかったこともあって、このように議員を巻きこんだ贈収賄事件に発展するケースもみられたのである。
いっぽう、九人が辞任した市会では、十月五日に補欠選挙がおこなわれることになった。長野警察署では九月二十九日に、市助役・市会正副議長・青年会長・軍人分会長・区長会長・政党関係者など三〇人余をあつめて、選挙粛正懇談会をひらいた。懇談の結果、選挙粛正会を結成し街頭でうったえることをきめた。そして、普通選挙制度のもとでいまだに選挙違反があり、議会制度の本旨にそわない状況があるのは残念であり、国家非常時のもとで国民の真摯(しんし)な政治生活が要望されている、との声明を発表した。さらに十月二日に、蔵春閣で長野選挙粛正会の発会式と演説会をおこない、選挙浄化の必要性をうったえた。しかし、粛正会の運動にもかかわらず選挙違反の摘発があいついだ。五日の補欠選挙は、市民の関心の低さや悪天候もあって、投票率は六一パーセントの低さであった。