農産物生産の多様化

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養蚕農家は、昭和元年(一九二六)の養蚕減収を挽回(ばんかい)しようと意気ごんでいた。しかし、翌二年五月十二日の大霜害は桑園の大部分を焼野同様の惨たんたるものにし、いちるの望みを抱いていた養蚕農家をほとんど絶望状態におとしいれた。政府から低利資金を借りいれて、かろうじて一時をしのいだが、その償還について長野市内農家は、数年後の農家経済の回復後でなければ困難であるとし、五ヵ年年賦(埴科郡農家)、一〇ヵ年年賦(上水内郡農家)を希望するところもあった。また別途借り入れられた翌三年の養蚕準備資金の大部分は、じっさいには生活費として消費されてしまった。さらに、その後の繭価の下落と違蚕は、いっそう養蚕農家の生活を困難にした。

 これに追いうちをかけたのが昭和恐慌である。春繭(上繭)一貫目が昭和四年の六円九九銭(県平均値)から五年には二円四〇銭に暴落した。五年の農繁期になって、養蚕手伝い目あてで各地から入りこんできた季節労働者は、繭価安から人手を雇ってまでも収繭を増やさない養蚕農家の経営方針によって、まったく相手にされなかった。なかには食べさせてもらえるだけでいいとして、戸別訪問して歩く姿もみられた。豊栄村では絶対に雇い人を使用しないと申しあわせていたので、見るに見かねた埴科郡農会では今後のこともあるので労使協調の立場から農業労働の斡旋(あっせん)をすることになった。従来こうした斡旋は一般の職業紹介所を通じてなされていたが、更埴地方には組織だった機関がないので、このさい各村農会、産業組合、農家組合等と連絡をとって系統的に両者の仲介役を果たすことになった。


写真6 昭和9年の豊栄村労働賃金標準協定額 「なるべく村内の人を使うこと」ということわり書きがついている

 上水内郡西部の山間地域には稲作がすくなく、養蚕と畑作が主業だけに生活は苦しかった。常食としては小麦粉の麺類や焼餅、大麦のひきわりなどが多く、ときにはふすまを食べてすごすものもあった。電灯料を支払えずランプ、ろうそくの光で夜なべをする、そのろうそくも毎日一本ずつ買うというものもあった。

 この農家経営の危機を克服するために、更級郡信里村有旅養蚕組合(戸数八〇戸)では組合員の大会をひらき、養蚕農家が生きていくための具体策を検討した。その結果、夏秋蚕掃き立ての二割削減をおこない、その余力を穀作などに投入すること、従来のように春繭代金を全部肥料代に費やすことをやめ、自給肥料(堆肥)を利用するために、毎朝、豊富な野草の刈りとりを励行した。

 このように恐慌を契機として、養蚕に依存してきた長野市域農業の構造転換が迫られた。県は五年の県会で桑園の転換を決定し、三五三万円の桑園改良資金を計上して、荒廃桑園の普通畑、果樹園への転換を奨励した。また、昭和六年から県農事試験場が果樹苗木(りんご・洋なし)の養成・配布をはじめた。これより先すでに昭和四年には果樹栽培面積が長野市八三・一町歩(一町は約一ヘクタール、以下同じ)、長沼村五八・九町歩と大きく、共和村二九・一町歩がそれにつづいていた。七年の農産物反あたり収益(県農会調べ)によれば、米三円九二銭、小麦四円二二銭にたいして、りんごは一四円九五銭にもなっていた。昭和七年から、産繭の減少にたいして麦・りんごのいちじるしい増加が対照をなしている(表3)。


写真7 傾斜地のりんごの手入れ


表3 農産物の生産量

 更級郡共和村あたりの茶臼山山麓が、春になってりんごの花に包まれるようになったのは昭和期にはいってからであるが、栽培面積を広げてきたその背後には大きな苦心があった。かつて青森県への視察や県試験場の指導、農会の尽力などが、出荷組合の設立とともに品質の向上、製品の選択、高価販売となって実現したのである。消費地で好評をうるためには、ひたすら選別検査と荷造り方法の合理化が必要であるが、出荷組合は選別になれ、検査を厳格にし荷造りの妙味をえて商品化していた。

 昭和五年度に活動している出荷組合の出荷額は、更級郡出荷組合二万四〇〇〇円、埴科郡同八万四〇〇〇円、長野市連合果樹組合二万九〇〇〇円、上水内郡農産物出荷組合一万九〇〇〇円、上水内郡浅川村同一一〇〇円、上水内郡芋井村同一万一〇〇〇円であった。これら組合を通じて東京市場へ出荷される農産物のうち、りんごについて、昭和十年度「果実出荷状況調査」(県農会)結果によれば、長野市、更級・上水内・上高井各郡産もので、団体出荷が七〇・五パーセント(四万八〇〇〇貫)、個人出荷は二九・五パーセント(二万貫)であった。

 このような県外向け出荷統制が一定の定着を示していたのにたいして、善光寺参拝客のあいだでは市内の信州りんごの評判は必ずしもよくなかった。それは当時、地元産よりも安く、売り上げ利益が多い青森産りんごが大量に移入され、信州りんごとして店頭に並べられていたからである。この不評を一掃するために、農産物検査所長野支部では昭和九年、検査林檎(りんご)販売組合の設立をはかった。そして標準販売価格を基準にして、天印二〇銭高、竹印一〇銭下げ、松印二〇銭下げなどと価格差をもうけ、組合員の店頭には「検査林檎販売」のマークを掲げ、客を安心させることにした。

 更級郡稲里村は水田二百余町歩のうち、小麦一七〇町歩、大麦四〇町歩で全水田が裏作可能な適地である。したがって経済更生計画でもこの裏作奨励に重点が置かれた。昭和八年から小麦作指導地として県から指定を受けたので、品種の改良・「伊賀筑後オレゴン」品種への統制、県奨励肥料への統制、俵装改善、検査器具の共同購入等農産物検査所との協力などについて、機会あるごとに農家組合を通じて徹底をはかった。収穫期ともなれば、農会適期刈りとりの表示旗は全村の麦畑にひるがえり、村内一五台の石油発動機は大きな爆音をたてて、一斉に農家組合共同脱穀作業に動員された。

 養蚕偏重から複合農業への転向として、副業奨励の機運が高まった。昭和五年十月、埴科郡内でおこなわれている副業は、養鶏で組合数三三、組合員数一〇七五人にのぼり、年総収入一三万円ないし一五万円をみて断然群を抜いている。その他は養兎組合一四、養豚同一三、剥皮同八などとなっている。

 更級郡信里村犬石農家組合(二〇戸)は、昭和八年農業経営改善実行組合に指定されると、組合の組織を部制に改めるとともに、村経済更生計画に応じて組合経済更生計画を樹立した。そのうち、有畜農業の確立のために八年の牛一頭、豚〇、鶏七〇羽、うさぎ三〇匹が、十一年には牛と豚それぞれ一九頭、鶏一五二羽、うさぎ八三匹に増やした。その他、自家用しょう油の醸造、共同購入・共同販売などを実践している。

 更級郡東福寺村小森では全部落一二〇戸が各宅地の庭を利用してなす苗の育成をしてきたが、昭和八年四月、生産者の統制を目的に小森奨農組合を創設した。技術の蓄積と恵まれた土質により、良苗の声価をあげた。系統農会の斡旋により北陸、岐阜県等へ出荷するまでになり、生産量は昭和九年の一〇四万本から十二年には一五四万本に増大している。