恐慌後、養蚕は先の見こみがない、まず食べるものを作れというので埴科郡内の農家は急テンポで養蚕熱からさめて、桑園を水田に転換し普通作物に切りかえる状況がみられた。郡内で昭和七年(一九三二)前半のみで五町歩の畑が用水や土壌問題を克服して水田化された。
肥料は桑園には施さず、水田に全力を注いだ関係で、稲作は一部の病害虫発生地を除いて、豊作疑いなしという状況であった。水田の除草も例年七月は、ようやく一番除草中の時期であるが、養蚕の少なくなった七年には二番除草まですませた。いままでかえりみられなかった雑草や山の芝草もどんどん肥料として刈りとられた。畑作を重視することはもちろん、桑園は多くの間作で埋められ、普通作物はめざましい増収ぶりを示した。
県が指定した組合の経営改善計画を批評する農業経営改善研究会が昭和八年秋から発足したが、埴科郡では九年一月、西条村鹿島組合が指定された。養蚕経営の共同作業と生産費の低減についても触れているが、稲作では多収穫品種の「無芒愛国」がすすめられ、「金光」は作柄不安定で栽培不適と指摘された。
米の保管(販売)にあたっては、農業倉庫に県の入庫米検査員が派遣され、厳正な検査をおこない、等級をつけて品位別に保管し、またその販売にあたっては同一品位のものを取りまとめ大量取りひきをすることによって、戸別農家の販売より有利にする。そのためには、米穀の改良、栽培上の指導も並行させる必要があった。昭和二年度農業倉庫入庫米検査は更級郡真島、篠ノ井、長野市吉田でおこなわれている。
上水内郡芋井村では、昭和七年春以来開墾をつづけていた飯綱高原の第一回開墾地に、そば、馬鈴薯(ばれいしょ)、陸稲、大根をまきつけたところ、たいへん発育がよかった。八年春には第二回の開墾が終わり、第三回の計画に着手しようと、自力更生に邁進(まいしん)している。県農事試験場でも同高原に着目して馬鈴薯環境試験のために、菅平高原の種芋を植えつけ、また芋井村農会では蔬菜に適するかどうか、試験的に二〇〇坪の植えつけをおこなうことにした。
小麦の共同販売が活発におこなわれるようになり、それにともなって品質検査がおこなわれた。四年七月に県農会係員も参加して、埴科農業倉庫において県内初の小麦標準等級査定会が開かれた。小麦品種と等級について調査したところによると、「伊賀筑後オレゴン」はもっとも好成績で、その後ひじょうな勢いで更級・埴科両郡内に普及した。この共同販売は農村の集荷業者から相当強い非難をうけたが、この非難から推して農村に好影響をおよぼしたと考えられ、農会がこの計画を実施することによって農家に販売上の自信をつけた。この検査で麦品質がいちじるしく向上し、消費地の仲買人の信用を高めたばかりでなく、検査のさい、品種の奨励や肥培管理も指導できたため、栽培上の好結果(反収増加など)も期待できた。
その後、小麦の共同販売については県内主産地の更級、埴科、上水内、長野等一市九郡農会の協議によって共同販売の方法をとって処理してきたが、昭和七年の政府による小麦増産五ヵ年計画奨励・実施を機に、県購販連(購買販売組合連合会)でも県産小麦の共同販売をおこなうことになった。このため県農会の方針と競合することとなったが、元来現金授受の事業は産業組合の利用を理想的としていた県農会は、小麦の販売については購販連と協調して事業を遂行し、生産および調整、検査までは農会が担当することになった。これによって小麦の販売統制が完成した。