産業組合・農会の活動

461 ~ 465

長野県の産業組合の発展は全国的に有名で、関係者のあいだでは「西に福岡、東に長野」と称されてきたが、昭和七年(一九三二)四月の全国産業組合大会でいっそうの発展を期すためにきまった産業組合拡充五ヵ年計画の必要性をうけて、本県でも八年一月から計画が実行に移された。その主要目標は、①未設置農村にすべて組合をおくこと、②農村産業組合は信用・購買・販売・利用の四種の事業を兼営すること、③貯金は倍加すること、④購買事業では肥料の六割を十二年までに統制することなどである。こうした組合運動の拡充強化と産業組合主義の普及徹底の背後には五年四月に結成された産業組合青年連盟の活動があった。

 未設置組合と四種兼営に関して長野市域では昭和十二年十月現在、上高井郡綿内村と上水内郡安茂里村で信用組合(事業)が未設置であったが、翌年には設置された。しかし、他方で翌十三年十月には、大豆島信用販売組合が唯一、四種兼営でない組合として残存している。ただし、もともと同村には昭和五年まで組合がなく、村内の信濃銀行支店の廃止にともなって、まったく金融機関がなくなるというので、信濃銀行貯金をもとにして産業組合が設立されて間もなかった。

 貯金の推進は、家庭主婦層による質素倹約の励行に負うところが大きかった。埴科郡内の産業組合主婦会は清野、西条、豊栄、寺尾などで活発な活動を展開している。その事業としては自力更生主婦貯金の積み立て、小学校児童の服装統一の研究、簡易服・綿作りの講習会開催、購買組合の季節品のとりまとめ、記念日・祭日における廉売の応援などがあげられる。更級郡真島村産業組合主婦会は八年一月の創立であるが、消費の節約、副業の奨励、衛生思想の普及、貯金の励行などをおこなってきた。消費の節約については小学校児童の登校服の統一、冠婚葬祭における虚礼の廃止が主なもので、とくに冠婚葬祭では色物は廃して白黒以外は着用しないという固い申しあわせをおこなった。また、貯金は消費節約と副業の奨励によって生みだし、一人あたり月五〇銭以上必ず実行することになった。

 購買事業の統制率の高さは組合役員の姿勢の問題であるが、地理的立地条件によるところもあるとみられる。昭和七年度末現在の購買組合事業実績から、産業用品(肥料など)と経済用品(消費財)の仕入れについて、どの程度連合会を利用しているかをみると、上水内郡では、小田切村産業組合八九パーセント、芋井村産業組合七八パーセント、七二会村産業組合一〇〇パーセントであるのにたいして、朝陽村産業組合二九パーセント、柳原産業組合五七パーセントと低い。平坦地における民間卸商との競争のはげしさ、統制の困難さをあらわしている。


写真9 昭和5年の寺尾村信用購買組合の決算報告書

 昭和七年から十二年度にかけての組合数・組合員数などの変化は表4のようである。組合の統合があったりして組合員総数は必ずしも「拡充」されていないが、貯金、購買品の売却額は飛躍的に増加しており、購買事業の統制率も上がったものと推測される。


表4 産業組合の推移

 恐慌による農家経済の打撃は農会費の滞納をもたらした。長野市農会は農会費の督促期にあたり、吏員は八方に飛んで滞納整理にあたったが、滞納徴収はまったく困難であった。市内桐原の滞納農家は、当地は農学校出身者が多いから農会費ほどの金があったら部落自治で十分農会以上の実績をあげられると主張して徴収に応じなかった。また、長野市芹田の農民を中心に、旧郡部の古牧、三輪、吉田の農民千余人は、市農会費全免を叫んで、代表三十余人が市役所に出頭し、市農会関係者に、農村不況のあいだ市農会費の全免か、さもなくば減免を申しいれた。農民がこの挙にでたのは、市農会内部の無統制ぶりに愛想をつかした結果で、無能な技術員の整理を主張し、これによって農会費負担の軽減をはかろうとした。

 いっぽうで、産業組合が未設置の村においては、それにかわって農会下部機構である農家組合の果たした役割は大きかった。上高井郡綿内村では、経済更生運動の中枢をなす産業組合設立の機が熟していなかったため、農家組合では利用部を設置して、農家の福利増進をはかることになった。まず小麦増殖計画にしたがって昭和八年十二月、製粉機一台を精米所内に設置、十年六月には精米所すべてを買いとり、翌年度には籾摺(もみすり)機、精米機、米選機等を備えた。資金は補助金以外はすべて農家組合の出資によるものであり、五分利付き五年償還であった。

 また、農産物の指導統制・出荷組合の利用励行がその根幹をなす農村経済更新五ヵ年計画は着実に達成されていった。上水内郡農会では、昭和六年に鶏一〇万羽、豚牛の飼育、柿の品質改良、陸稲の普及宣伝等が掲げられた。それによれば、①鶏飼育については郡農会で鶏一〇万羽の共同孵化(ふか)をおこない、これを各村農会に配当して育成のうえ、十分成長の見込みのついたところで各希望農家に分配する、そして鶏ふんは自給肥料として活用する、②山村部においては牛一家一頭主義、平坦部においては豚一家一頭主義を励行、出荷組合が販売の衝にあたる、③山村部の柿は県外市場においてひじょうな需要をきたしているのでさらに品種を改良して声価をたかめる、などであった。

 上水内郡の山間地方は「御所」柿、「蜂屋」柿等の産地であった。交通不便の地であるため地方商人に年々廉価で取りひきされてきたが、郡農会は村農会、産業組合と連絡をとり、上水内郡農産物出荷組合を組織して、みずからその任務にあたった。


写真10 軒先にすだれのように掛けられた干し柿

 これにみられるように、農産物流通については農会と産業組合の分掌があいまいであったため、しばしば主導権をめぐる紛争が引きおこされたが、十一年三月、長野県農林物産販売統制委員会が組織され、その決議により、県、県農会、県購買販売組合連合会が一体となって販売統制の一元化をめざして、長野県物産販売協会を結成した。その後の農会と産業組合の連絡・協調の実情をみると、活動分野の協定がなされ、生産指導は農会において、販売購買等の経済行為は産業組合(の系統機関)において分担し、相互の連絡協調により更生の実績をあげている。あるいは本県の実情に即して品目に応じて二者のいずれかの統制機関を決定している。