長野市郊外のいわゆる善光寺平といわれる犀川左岸の川北地域は、ふるくから灌漑用水は主として裾花川に頼っていた。妻科地籍白岩付近の左岸に鐘鋳堰取入口、その下流約二〇〇メートルに八幡堰の取入口があり、右岸には小柴見堰、安茂里堰、市ノ口堰、米村堰それぞれの取入口があった。犀川左岸からは、久保寺堰が取水して灌漑に供していた。
明治三十二年(一八九九)国は補助金の措置を講じる「耕地整理法」を、つづいて同四十一年には「水利組合法」を公布した。ときを同じくして同三十二年にはコンクリートによる水門築造が始まり、また四十三年には鉄筋コンクリート工法が出現した。この年には全国的な河川の氾濫があり、国内に食糧不足の問題がおこって、土地改良事業とともに食糧増産の必要が生じた。そこで国は、大正四年(一九一五)四月用排水改良事業への二分の一補助を決定し、さらに同十二年「用排水改良事業補助要項」の通牒で、「府県営大規模用排水幹線改良事業」を開始して、五〇〇町歩(約五〇〇ヘクタール)を越える土地改良事業には国庫補助五割を決定した。このような状況のなかで、県下でも新しい工法と国および県からの補助による上水道や灌漑用水事業が、各地で進展しつつあった。大正四年完成の長野市上水道工事もその一つである。
裾花川に取入口をもつ関係諸堰は、裾花川水量の減少と用水施設の不備とにより、時々の旱(かん)ばつや洪水の被害で、年々灌漑用水の不足に苦しんでいた。裾花水系では、すでに近世から犀川水系の利用も考えられていたが実現せず、大正十年に小坂順造などがこれまでの裾花川水源だけでは限界があるとして、地域内の水源にとどまらず梓川(犀川)水利などの研究をしていた。大正十三年には大旱ばつがあり、当地域の約五二町歩(約五二ヘクタール)余りに収穫皆無の免租地を出した。そのため同年鐘鋳堰と八幡堰では妻科地籍での取入口や鐘鋳堰の余水放水口などで、連日むしろ旗を押したてての水争いがつづき、さらには両堰間に水利権確認の訴訟がおこり、数年を経ても和解にはいたらなかった。大正十五年八月長野市農会の農業調査会では、農業水利問題の根本的解決策を議し、研究調査を重ねた。
昭和三年(一九二八)一月、長野市長ほか関係四村長の同意をえて、このさい犀川からも取水してその不足を補う善光寺平用水組織を根本的に改良する必要のため、県へ調査方を申請した。そして昭和四年一月地元では「犀川揚水期成同盟会」を設立し、会長に井原岩吉、副会長に長田茂左衛門と堀内文作が推された。さらに同年九月十八日には「善光寺平農業水利改良期成同盟会」と改め、鐘鋳堰、八幡堰はもちろん関係地域一円の諸堰を統一した基幹水路の設置を期して、長野市長二期目再任の丸山弁三郎が会長に推された。
県もこれら地元の動きをうけて、昭和三年度の農業水利調査区として調査を開始し、農林省技術官の派遣をうけて四年八月事業計画を作成し地元との協議の成立をみて、国へこの事業の急速実施を申請した。そして県自体もこの事業施行に関する諮問案を十二月県会に提出した。
このような動きにたいして、犀川右岸(川南)からは、この工事計画に反対の動きがおこった。昭和四年十一月には下堰・鯨沢堰・小山堰の組合からは連名で県にたいして「三堰の引水に差し支えのないよう処置すること」として幾つかの条件を付して陳情書が出された(『鯨沢堰沿革概要』)。これについては県の仲裁もあり、犀川幹線の取入口は最初の計画より下流で、鯨沢堰の上流あたりとしたり、木工沈床等による付帯工事で影響のない方途を講ずることとした。いっぽう、川北地域内部の関係町村や八幡堰支流の諸堰組合などからも、それぞれ利害関係にからむ諸要求が出されてその調整にも苦心したが、同盟会役員はこれらの諸問題にもねばりづよく対応しその解決に努力した。
昭和五年一月二十日、八幡・山王堰組合三六ヵ村代表大会を池紋旅館に開き、仮協定事項を作成した。これをもとに同二月十五日の協議会で仮協定事項の審議により多少の修正を加えて、協定事項を決定した。その内容は一〇項目におよぶが、おもなものはつぎのようである(『信毎』)。
一 八幡、山王堰組合三十六ヶ村共同一致ノ精神ヲ以テ進ムコト
一 旧来ノ用水慣行ノ精神ヲ尊重シ之ヲ犀川幹線ニモ及ホシ尚其ノ水路管理ニ要スル経費ハ全組合ノ負担トス
一 工事施行ノ順序ハ犀川揚水幹線ヲ先トシ裾花附帯工事ヲ後ニスルコト
一 現在進行中ノ訴訟問題ハ控訴人側ニ於テ取下ヲナスコト
この協定事項により地域内の諸問題の解決もしだいにすすみ、とくに鐘鋳堰との訴訟問題和解や対岸地域との問題も何とか落着したのは昭和五年の暮れであった。
昭和五年十二月八日、期成同盟会総会には約一〇〇〇人の出席者が集まり、「善光寺平耕地整理組合」とする案が決定され、組合長丸山弁三郎ほか役員が選出された。そして翌十三日には八幡堰対鐘鋳堰用水訴訟事件和解協定が成立した。その協定では「善光寺平耕地整理組合ニ於テ計画ノ揚水工事完成迄ハ八幡堰関係者ハ雅量ヲ以テ鐘鋳用水簗手ノ現場ヲ支持シ、旧来ノ慣行タル鐘鋳落シヲ為ス場合ニ於テハ現在ノ簗手ノ切口(第一第二ノ切口)ニヨリ午前四時ヨリ午後四時迄切開クベキコト」また「訴訟費用ハ各自ノ負担トシ、来ル十二月十六日東京控訴院ニ於テ本協定事項ヲ和解調書トナスコト」(『信毎』)とされ、ここに七年間におよぶ両堰の訴訟問題はようやく和解にいたった。
時あたかも、恐慌の波が農村をおそった時期であり、国は昭和七年「救農土木事業」を決定して土地改良事業を、農村の更生振興と失業者防止救済、食糧増産等のうえからも緊要な事業として位置付けた。そしてこの善光寺平農業水利改良事業も、農林省の用排水幹線改良補助事業として、昭和六年度から九年度まで(のちに十一年度まで更訂)の継続国庫補助が決定した。県も農村振興上と両堰訴訟和解に資する点が大きいとして国に合わせ継続県営事業としておこなうことになった。
工事内容と経費は当初のものから幾度か変更増加されるが、当初事業総額七十万五千余円(最終決算八十四万五千余円)、うち国庫補助五割、県費補助一割、地元負担四割であった。これにたいし地元ではさらに一割に相当する約七万円の補助を長野市へ陳情した。市ではこの決定におくれをみるが八年六月三万五〇〇〇円の補助交付を決定した。国庫補助が数年度にわたる関係上工事は第一期犀川幹線と第二期裾花川幹線とに分けて施工することになり、工事の請負は飛島組にきまった。
第一期の犀川幹線工事は、昭和七年一月十四日に許可となり、四月二十日地鎮祭を安茂里村小市の取入口でおこない、つづいての起工式は城山グラウンドでおこなう予定であったが、当日は時ならぬ肌寒い雨天となったため急きょ蔵春閣屋内に変更しておこなわれた(『信毎』)。この工事の主な内容はつぎのようである。
・経費約六二万円(最終決算七十万千余円)
・幹線の頭首工(コンクリート造りの取水口)からは毎秒最大一五〇個(一個は一立方尺だから約四・二トン)の用水を取り入れ、これまで犀川から取水の久保寺堰および裾花川から取水の八幡堰支線である漆田、計渇、古川、南八幡、北八幡などの堰に必要な水量を放流する
・導水路延長 一里二八町二七間余(約七・〇キロメートル)
・途中暗渠工延長 一三五七間余(約二・五キロメートル)
・同 開渠工延長 一二四二間余(約二・二キロメートル)
・同 サイフォン 一二〇〇間余(約二・二キロメートル)
・その他雑工 六七間余(約〇・一キロメートル)
犀川幹線の頭首工(写真12)は、県道長野大町線に沿った河岸で、水門は鉄筋コンクリート構造とし、門扉三連の自然流入とした。幹線水路は、取入口から現小市橋まで暗渠、そこからは開渠で久保寺堰分水点まで導水、そこから下流はふたたび暗渠になり、裾花川はサイフォンで横断、以下北八幡堰放水口までのあいだは、場所により暗渠や開渠をへて導水した。この工事は、関係各堰への大小各種の分水口工事や主要道路交差点での鉄筋コンクリート暗渠工事など大工事であった。
第二期の裾花川幹線工事は、裾花川左岸の旧鐘鋳堰と旧八幡堰の取入口および右岸の安茂里関係四堰の取入口すべてを一つに統一して、旧鐘鋳堰取入口より約一〇〇メートル上流にコンクリートの堰堤を設け、鉄筋コンクリートによる頭首工(写真13)を設置するというものであった。昭和九年(一九三四)十二月二十五日に地鎮祭、翌十年一月から工事に着手した。工事の主な内容はつぎのようである。
・総経費十二万九千五百余円(最終決算十二万二千余円)
・頭首工からは、毎秒最大 二二二個(約六・二トン)の用水取りいれ
・導水路延長 四一一間余(約七四〇メートル)
・途中隧道工延長 六八間余(約一二二メートル)馬蹄型
・同 暗渠工延長 一〇間余(約一八メートル) 馬蹄型 鉄筋コンクリート
・同 開渠工延長 二〇五間余(約三七〇メートル)梯型、練石積練石張
・旧河川改修 一二六間余(約二二七メートル)
こうして、旧鐘鋳堰と同放水路を改修して、八幡堰につなげ、旧八幡堰取入口下流約一〇〇メートルの地点で旧堰に合流させ、旧八幡堰取入口は廃止して在来の堰敷は埋め立てた。そして合流点から下流約二四五メートルの地点で、安茂里関係用水を分水し、サイフォンで裾花川を横断させ、関係四堰にそれぞれ放水し、裾花川右岸からの旧四堰の取入口は廃止した。さらに県庁西側の八幡堰大口分水点では、旧来からの支線各堰に必要な水量を放流することになった(『信毎』)。
この工事の第一期第二期をふくめた費用は、県債費約二万二〇〇〇円をふくめて総計八十四万五千余円を要している。すべての水路がほぼ完成したのは昭和十年五月であった。同月二十六日には両幹線の試験通水を実施し、付帯工事をふくめた全体の竣工式は昭和十一年四月二十八日桜花爛漫の城山グラウンドで挙行した。この工事の完成により、近世以来ながく水不足に苦しむ関係地域の用水は確保され、一市八ヵ村約一七〇〇町歩(約一七〇〇ヘクタール)の水田に灌漑が可能となり、熾烈な水争いも影をひそめた。善光寺平耕地整理組合では、竣工後県庁西側の八幡堰大口分水地に記念碑を建立した。
これにより、戦前の工事は一応ひとくぎりとなるが、第二次世界大戦後は、東京電力小田切ダムの建設にともない他の犀川関係用水とともに「善光寺川中島平農業水利改良事業」が県営事業として大きく実施されることになる。