犀川右岸の上中堰下堰など明治初年から明治末年までの用水事業については、近世末期からの継続に関する部分が多いため、この期間の事業は本誌第三巻『近世一』で記述するが、その内容のおもなものは、①明治元年(一八六八)上堰の操穴堰掘りひろげ、②同四年上中堰組合の成立(このとき下堰合併は実現しなかった)、③同二十五年から同二十六年の犬戻操穴の開削、④同二十八年からの笹原瀬川の開削、および同三十一年新瀬川の開削、⑤同三十一年から同三十六年裏山隧道の開削等である。
明治三十六年十二月上中堰組合は、小松原操穴が時々岩石の抜けおちなどで通水不良になるため、この抜本的改修をはかり、一万六五〇〇円の起債を議決した。翌三十七年二月からは県の技師による調査があり、瀬川堤防改修工事のみの認可があったが、用水管理者である郡長等の努力もあって、隧道工事の必要性が認められた。その後当初計画を修正し、同年八月県の認可がおり実施の運びとなった。地元ではさっそく同年十月高松隧道工事に着手した。しかし、その後幾度か工事内容と予算が修正され、最終認可は三十八年二月であった。その工事内容の大要と工費は、①用水路延長二〇五間余(約三六九メートル)、そのうちれんが隧道一九間(三四メートル余)、素掘り隧道一六五間(二九七メートル余)、掘割り水路二一間余(約三八メートル)、②このほか石堤延長一八間余(三二メートル余)、③工費一万四千百余円、④請負は長野市桜枝町の上野正隆、であった。工事は着工以後連日おこなわれ、三十八年三月には貫通し、五月三十日竣工(写真14)、六月一日には通水した。この隧道は旧操穴とは比較にならない高度な技術によって、通水状態のよいものであった(『上中堰の歴史』)。
明治四十四年に大口水門も建設され、これらの用水施設により取水量が確保されるとともに、洪水等の被害もしだいに少なくなった。この高松隧道建設当時は「耕地整理法」(明治三十二年公布)が改正されたり、「土地改良奨励費規則」が定められて、全国的に土地改良事業が盛んになる時期である。そしてまたこの時期の一連の工事はセメント工法の出現とも関連して、恒久的な施設を建設する転換期を示すものでもあった。
大正初年から同十年前後までのあいだは、主として枝堰や瀬川の修繕・幅員の拡張、分水口などの工事に経費をかけている。そして同十二年国が「用排水改良事業補助要項」を出すが、上中堰の場合この要項による補助事業ではないが、昭和初期へかけて引きつづき水利施設の更新・近代化がすすめられている。
上中堰が補助事業として隧道改修をおこなったのは昭和九年(一九三四)である。しかし、この改修は補助額三七五円という小規模なものであったが、時局匡救耕地事業として上中堰地区七〇町歩(約七〇ヘクタール)の隧道改修工事が認可された。これは昭和七年に帝国議会が決定した「救農土木事業」によって、五〇〇町歩以下でも五〇パーセント補助がなされることによるものである。
笹原の取水口はときどき改修されてきたが、取水方法が犀川本流からの自然流入のため、夏期の渇水時には二〇〇メートルにおよぶ牛枠を設けて、かろうじて取水するというもので恒久的施設としては不十分であった。そこで昭和十一年に「県営農業水利改良事業」として頭首工設置の調査がはじめられた。当初の計画では、取水口を一〇〇メートル上流に移動して河床低下を防ぎ、コンクリート床止工によって安定させる。床止工からおよそ六〇〇メートルを隧道として旧水路に取りつけ、取入口幅二・五メートル、五連鉄筋コンクリート造りの頭首工にするというものであった。翌十二年七月には国庫補助の陳情をしたが、その後計画の一部が変更となり、十四年七月の『信毎』記事によれば、①取水口を三〇〇メートル上流とし、②自然流入口から河水を取りいれ、③暗渠一二〇メートル、隧道延長六三六メートルを新設、④現取水口より下流四〇〇メートルの地点で現導水路に合流させる、というものであった。この設計書は昭和十四年九月に農林省へ提出し、同年十二月には総事業費三〇万円の二分の一の国庫補助が認可された。補助額は昭和十五年度から十九年度まで各年度最高四万円から最低二万円に分けて合計一五万円であった。残り一五万円は県費と地元負担である。この工事の目的は、単に通水の便を得るだけでなく、工事前一町歩あたり一二九円の純収益が工事改良後には一八三円六〇銭に向上させることであった(『信毎』)。これによると、当時の用水改良は新田開発による耕地面積の拡張ではなく、単位面積あたりの収量増加をねらう集約的農法にあった。
頭首工の規模は、水門の長さ一〇・四五メートル、幅二一メートル、高さ二・〇メートル、段数四段、水止三方捲上手動等であった。工事管理者は篠ノ井町長柳沢貞雄で、昭和十五年五月に地鎮祭をおこない、十七年五月暗渠工、同年十月三十日には隧道工が完成した。しかし、頭首工部分の工事はこの時点で三分の一余りを繰りこすこととなった。これは第二次世界大戦による人手不足と資材不足、さらには工事現場の地層が複雑で堅い岩盤は手掘りができず、軟弱な地層では崩落があるなど難工事が原因であった。加えて昭和十七年は洪水と未曾有の旱ばつに襲われたりで工事はおくれ、翌十八年にいたっても通水は延期された。そのため更級農学校生徒の勤労奉仕隊による水留作業の協力などもえて、ようやく十九年十二月に竣工した。ただし、上中堰土地改良区の記録では同年五月一日に竣工届けが出されている。
川中島三堰の一つである下堰も、上中堰と同様近世以来明治末年のこの時期まで、犀川のたび重なる洪水に取入口の崩壊やその修復に苦しんできた。明治二十三年から二十四年にかけては、木製口水門の建てかえをした。このあと記念として翌二十五年には下堰取入口地籍に祭祀してある水神社の改営をした。
また、同四十三年八月の豪雨で千曲川・犀川両川の同時増水により、下堰取入口施設いっさいの流失と水神社裏石堤約七〇間(約一二六メートル)が欠壊した。このため同年九月には県へ復旧工事の陳情と地元負担金の程度を伺い、四十四年二月県吏員の調査設計をえて認可となり、総工費二四四七円余で同年三月起工、五月二十日には竣工した(『上中堰の歴史』)。
大正八年(一九一九)には春以来希有の旱ばつに襲われ、加えて明治二十四年建てかえの口水門が腐朽してきたため、その改築と犀川流水を下堰用水引入口に誘水する木造沈枠の打杭工事を計画し、関係地籍の小田切村へ交渉したり県へも陳情してその実現をめざしていた。たまたま、この前年大正七年には、県営による千曲川改修の大工事が始められた時期に重なり、下堰組合では翌九年十月「本組合口水門はあたかも其築堤に当り、国庫の補助を仰ぎ完全なる工事を施行」したいとして、内務省あて総額一万九八八〇円余、うち国庫補助三分の二、組合負担三分の一として申請し認可をえた。そして同年十二月下旬に着工し十年五月には竣工した。しかし、この工事もまた木製のため永くはもたなかった(『下堰沿革史』)。
昭和八年犀川出水、つづく同十年十月の大洪水では下堰施設の北岸工事と瀬割り全部を流失し、河床も一尺五寸余り(〇・五メートル弱)低下した。この復旧には応急工事で十一年度の田植えはどうにか済ませ、半永久的布設も考えられたが、けっきょくは延長数十間の下堰瀬川内掘浚(ざら)いにとどまった。
こうして近世以来膨大な労力と経費をかけてきた一連の用水事業も、上中堰ではもっとも難関とされる取入口と隧道はほぼ恒久的な完成をみたが、下堰やその他下流の小山堰や鯨沢堰では半恒久的な取水口の設置はできず、第二次世界大戦の終結を迎え、戦後になって東京電力小田切ダムの建設にともない、犀川右岸の諸堰とともに、同ダムに本格的な頭首工を設置し、はじめて恒久的な安定をみることになる。