昭和六年(一九三一)九月二十日の『信毎』夕刊は「支那兵の襲撃から日支両軍遂に交戦 全力をあげ奉天攻撃中」との見出しで「十八日午後十時半頃奉天の北方北大営に於いて約三百名の支那兵が突然我が守備兵を襲撃し更に満鉄本線の鉄道を破壊したので直に我守備兵との間に交戦が開始された」と「奉天十九日発至急報」を一面トップで掲載した。この事件は今日「柳条湖事件」といわれるものである。
昭和六年の段階では日本軍による満鉄線路爆破ということの真相がかくされ、中国軍が日本兵を攻撃したことや満鉄爆破によって事件が引きおこされたこととして大々的に報道された。全国の新聞も『信毎』と大差ない報道をしているが、日本と中国が「遂に交戦」と報じたところに『信毎』の特徴があった。それから三日後、この「事件」はときの政府によって「事変」と呼び名を変えて国民に知らされる。
「事変」とは宣戦布告なしの国際間の紛争をいい、「戦争」は宣戦布告によって軍隊と軍隊が兵器を用いて戦う国家間の闘争をさすが、当時は「事変」を「戦争」と認識していたものもあったのである。
この「事変」に関して政府は軍事行動の不拡大方針をとった。これにたいし『信毎』は二十二日の段階で戦線の拡大を予測し、「日本政府が事件拡大を防止する方針をとれば事件は益々拡大する。戦乱区域を最小限度にとどめようとすれば最大区域に広まろうとする。満州全面の火だ。もう手がつけられない。」と、満州の情勢を表現した。また「日本の軍事行動は不戦条約に反せず」「撤兵恐らく不可能か」と日本軍の軍事行動を肯定し、満州事変を支援する立場をとった。事件勃発から四日目の新聞には写真入りで「日支交戦画報」を載せて、大衆に大陸で戦う日本軍のようすを知らせた。この「日支交戦画報」は二十六日の夕刊から「満州事変画報」と名を変えて掲載されることになる。事件から十日後の二十九日には「事件があまりに大げさであっただけに日本の態度は今や世界各国の注視のまとになっている」として「世界に響いた満州事変」の社説を載せた。そのなかで日本の軍事行動は自衛権を行使したに過ぎないこと、満州への軍の派遣は国際条約上許されている範囲をわずか四〇〇〇人超過しただけであること、世界各国や国際連盟は中国側の宣伝を信じ、必ずしも日本側の主張は認められず、不利であると主張した。
事件がおきた九月には二十九日投票の長野県会議員選挙のただなかにあったため、新聞報道はどちらかというと選挙情勢に重点がおかれた感があった。そのなかにあって篠ノ井高等女学校で四年生に「満蒙問題について」の論文を課したり、更級農学校の中村大尉を招聘しての満蒙問題の講演会開催は満州への関心を示すはやい動きであった。十月に入ってから県内では在郷軍人分会を中心に事件にたいして関心が高まってくる。十月四日に大会を開いた更級在郷軍人会では「満蒙における既得権擁護と東洋平和保障」のための宣言と決議をおこなった。十一日、松代小学校講堂で大会を開催した埴科郡在郷軍人連合分会は「正当なる権益擁護のために」、①国防思想の振興と国軍の充実を期すこと、②国際軍縮会議への日本国全権の支援を決議した。
『信毎』は事件後約一ヵ月経ったところで「満州事変惹起(じゃっき)と同時に国論が沸騰し、挙国一致、これを解決せんとする気分が発生してもいいはずであったにも拘らず、今日までこれを見なかったのは、愛国心の旺盛(おうせい)なる我日本国民には珍しいことであった」との社説を掲載し、世論が盛りあがらないことを指摘している。
十一月に入り長野市軍人会は長野市教育会・長野市青年団・長野市有志とともに「満蒙同胞擁護」等についてつぎのような四ヶ条の宣言を出した。
一 満蒙ハ帝国ノ生命線ナリ、吾人ハ断乎外敵ヲ一掃シ以テ我カ正当ナル権益ト同胞ノ安全ヲ擁護センコトヲ期ス
一 正義ヲ世界ニ布キ東洋永遠ノ平和ヲ確保スルハ吾カ立国ノ大義ナリ、吾人ハ政府当局ヲ激励シ挙国一致万難ヲ排シ以テ帝国ノ世界的使命ヲ遂行セムコトヲ期ス
一 大命ヲ奉シ満蒙凶徒排撃ノ任ニアル精忠決死ノ皇軍ニ対シ吾人ハ全力ヲ尽シ以テ之レヲ後援セムコトヲ期ス
一 内憂外患国歩困難ノ時ニ際シ吾人ハ誓テ人心ヲ正シ志気ヲ作興シ、純忠至誠以テ天業ヲ恢弘シ国威ヲ宣揚セムコトヲ期ス
この宣言書は長野市教育会や長野市青年団、市民の有志が軍人会とともに満蒙同胞擁護を宣言したところに特徴があった。そのなかで「満蒙は帝国の生命線」であることが強調され、満蒙の権益の正当性・東洋平和実現のために国民挙げて政府の支援をすること・大陸での軍事行動を容認し、国防思想を高揚することが高だかにうたわれている。
長野市少年団でも中国への派遣兵に慰問状を贈り、十一月十五日午前九時から城山県社に参拝し、在満兵の健康を祈り招魂社前で戦死者の慰霊祭をおこなった。
十二月十一日午後一一時二〇分、長野駅ホームには満州に渡る出征兵士を乗せた軍用列車が直江津方面から到着した。駅のホームは在郷軍人分会、愛国婦人会、日赤長野支部病院の看護婦、少年団、各中等学校生徒、一般市民など約三〇〇〇人の群衆で埋めつくされた。停車時間はわずか一三分。「ここはお国の何百里……」の軍歌が歌われるなか、愛国婦人会からはりんごと八幡様のお守り、長野市からは寒さをしのぐ唐辛子と善光寺の御札が兵士に配られた。
昭和六年三月八日から城山に開局をみた長野放送局も、県民の満州への関心を高めるのに大きな役割を果たした。九月から十一月までに放送された満州問題などの時局放送は表5のようである。放送局長の猪川は「最近私が面接した数人の青年諸君の殆(ほと)んど総(すべ)ての方が、驚く程日支問題に就て理解を持ち帝国の前途に関して真面目に心配をせられ、国民今後の覚悟につき各自しっかりした意見を持って居られるのには只々敬服の他はなかった」と青年層に満州問題の関心が高まってきたことをあげている。
「満蒙は日本の生命線である」ということばはあらゆる場面で使われるようになった。信濃教育会は雑誌編集主任の矢島音次が『信濃教育』に「時局に直面して」を載せ「満州は我国生命の第一線である。満州を死守せよ!」「満州に新しい日本の文化を建設せよ」と論じた。「新しい日本の文化の建設」とは「開拓の精神を鼓舞して海外移民を奨励する」ことを意味していた。また「昭和六年の回顧」でも「今回の満州事件の突発に伴い、一面には教育が学校以外にも進出の必要を感じ、其結果内地農村の文化を海外殊に満蒙の地に移植するの急務なるを感じて、教育界は近頃にない積極的気運に満ちている。」とときの情勢を分析し、満州へ積極的に進出すべきであると主張した。
多くの人びとが政府や軍部の宣伝に影響を受け、事件の支援にまわったが、なかには「事変」に反対する動きもあった。労農大衆党は十一月二十三日長野市で会合をもち、「満州問題に端を発して第二次帝国主義的世界大戦争が起こる恐れがあるので、無産者の立場から飽くまで戦争に反対すること」を決定し、座談会や講演会を開催し、戦争否定を大衆に訴える活動をしていくことをきめている。