昭和七年(一九三二)一月十八日、上海で日本人の僧侶が抗日中国人に襲撃され一人が死亡するという事件がおきた。これをきっかけに抗日運動の拠点となっていた上海まで戦火が拡大し、いわゆる上海事変がはじまった。この事変は満州事変にたいする欧米列強の批判をそらす日本軍部の目的があったといわれる。事変から一ヵ月後の二月二十三日、長野県下の各市町村にたいして動員令がくだった。
動員にたいし各地ではさまざまな動きがあった。安茂里村では二十余人が応召されたが、そのなかの一兵士は病床の妻子を残して出征していった。小市の巡査駐在所に勤務する西川は村当局とはかり軍事救護法によりこの兵士の妻を日赤に入院させるなどの援助の手をさしのべたという。この兵士は全国労農大衆党小市執行委員として活躍した人物であったが、かれの家族への「温い銃後愛の後援によって目が覚めその弛んだ性情を引きしめて奮励努力することができ純真真面目な勇士となって凱旋した。」とまわりからはみられるようになった。また、二人のこどもを同時に出征させた川田村牛島の穂谷元太郎は餞別(せんべつ)金のなかから一〇円を村の軍人遺族後援会に寄付し「報国の至誠を発揚した」と評価された。寺尾村実業補習学校職員は鮮血で日の丸を描き召集された兵士に贈った。なかには応召されたものの身体検査の結果不合格となったものたちは応召のさい贈られた餞別を戦友の慰安のために寄付したり、軍人後援会に寄付するなどの行為があった。長野市医師会や上水内郡医師会、長水薬剤師会、長水産婆会、長水看護婦会では市町村長の証明をもつ出征軍人遺族家族にたいして無料奉仕をおこなった。長野市牛乳業組合でも出征軍人遺族家族にたいして牛乳の無料配布をし、銃後の取りくみをみせた。真島村では小学校三年生以上で構成される少年少女団二七人が村内から二人の応召者があると鎮守の清水神社に二人の戦捷と健康祈願の参拝を実施した。神社参拝は二、三月は午前六時から、四、五月は午前五時三〇分から毎日曜日つづけられた。
これらの活動は、銃後活動を盛りあげるために長野県学務部と松本連隊区司令部から『満州事変・上海事件に長野県の生んだ美談佳話』として一冊の本にまとめられ、七年七月に刊行されている。
動員下令のあった翌日、二月二十四日から三月二日までの長野駅前は軍歌の大合唱と熱狂する市民の人波であふれた。駅のホームには市長の書いた「途出征」「壮出征」等の文字が張られ、武運長久を祈る大旗がたなびいた。「万歳」の声や「頼むぞ」「元気で」「頑張れ」の声に送られて、該当応召者は宇都宮の歩兵第五九連隊や松本を衛戍(えいじゅ)地としていた歩兵第五〇連隊に召集された。応召したもののなかには駅頭で卒倒してしまうものや、列車を乗り間違え、稲荷山から屋代に出て宇都宮に向かう光景もみられた。見送る市民に交じり、煙草の箱で背嚢(はいのう)をつくり肩にかけて小旗をふり、軍歌を歌って見送る芹田小学校のこどもたちの姿もあった。
五〇連隊は三月五日出陣式をおこない、大阪から上海に渡った。大阪では長野県女子連合青年団の見送りをうけた。上海では中国軍の抵抗のために多くの犠牲者をだした。はやくも三月二十五日には善光寺本堂で信濃毎日新聞社主催による長野県出身の戦死者一八人の追悼法要がおこなわれた。その日の午後七時から蔵春閣では信濃毎日新聞社が募集した歩兵第五〇連隊の歌の発表会があった。西澤圭の作詞した「われ等の松本聯隊」に作曲家山田耕筰が曲をつけた。聴衆は山田耕筰のタクトにあわせてこの歌を練習し、そして「満州興国の歌」や「満州の歌」とともに歌った。午後一〇時にこの「愛国大演奏会」は閉じたが、この演奏会にも法要会に出席した遺族は招待されている。
五月上海停戦協定が調印されると連隊の一部は本国に帰還し、残りは北満の警備についた。警備の期間二年間に八十数回の戦闘がくりかえされ、戦死者は百三十数人を数えている。
十一月二十七日、松代尋常高等小学校校庭で上海事変後最初の町葬がおこなわれた。戦死者の遺族は貧困なものが多く、軍事救護法によるもの四人、これに準ずるもの五人、四八人中九人が極貧で、生活程度は赤貧八人に準ずるもの合計一八人、実に三八パーセント弱が気の毒な生活状態にあり(『信毎』)、戦死者数が増大するにつれ残された家族の救護が大問題となっていった。
上海事変のさい、爆弾を抱えた三兵士が身をもって突破口を開いて賞賛され、こどもたちのあいだでは「爆弾三勇士の歌」や遊びが流行した。満州事変から上海事変へと事変が拡大するのにともない、各地では銃後活動も盛んとなり、しだいに人びとの意識が戦争へと向けられていった。
昭和七年当時に盛り上がりをみせた銃後活動は、上田飛行場建設を機会にはじまった陸軍への飛行機献納運動であった。募金活動は「各町村ノ人口数ニ六銭ヲ乗ジタル金額ヲ最低限度トシ、一口五銭以上」として市町村・学校・男女青年団・産業組合・在郷軍人分会などを通しておこなわれた。長野市では、市長丸山弁三郎・区長懇話会長左治木清七・在郷軍人分会長杉田精義の連名で、二月十八日付「飛行機愛国信濃号寄贈趣意書」が配られ、一口五銭以上集められた。「近年打続ク不況ハ実ニ深刻ニ達シ吾々農蚕業者ノ生活ハ死滅ニ瀕シツツアル」という西寺尾村農会の声明にみられるように、深刻な不況下にありながらも七月までの応募者は県全体で一三六万人、募金額は七万九五〇〇円余に達した。
寺尾村をみると昭和七年三月末の町村税滞納額は二二四五円、滞納率は一四パーセントに達しているにもかかわらず応募金額は一四四円七五銭となり、ほぼ目標を達成する結果となった。その内訳は東寺尾が四八円、柴が二九円、小島田八円、牧島一八円、大室三九円余となっている。募金は陸軍省に贈られ、飛行機は「愛国信濃号」と命名された。
「柳条湖事件」がおきた九月十八日はときの政府によって「満州事変記念日」として生活に位置づけられ、各地で毎年記念行事がおこなわれた。
事変勃発一周年には記念式と凱旋兵感謝市民大会が城山小学校校庭で開かれた。鍋屋田小学校の六年生の代表は全職員とともに式に参加した。芹田小の高等科生もまた、全員式に参列した。いっぽう青木島村の小学校では学校長が全校児童に「満州事変記念日」の訓話をおこない、訓話後こどもたちは各地区の氏神に参拝し、出征兵士の武運長久を祈っている。
昭和十年九月の事変四周年記念日には、善光寺の忠霊殿に東郷元帥や閑院宮の揮毫の扁額が掲げられた。「星霜ここに五たび、払暁郷軍の模擬召集に始る、仏都の愛国大行進」と『信毎』が大々的に記事にしたのは五周年記念日であった。愛国行進で城山小学校に集まった青年学校生徒や少年団の団員、在郷軍人分会のものたちを前に藤井市長は、建設途上にある長野飛行場の実現促進をはかりたいことを挨拶(あいさつ)で述べている。このとき、在郷軍人会長野市連合会は「広義国防航空国策遂行上その重要地点たる長野飛行場の実現を断乎要望す、飛行場建設の為当局を激励すべく全市民の奮起を促す」との宣言決議をし、長野市出身の衆議院議員をはじめ県会議員、市会議員、区長、市内有力者など合計三五〇人に声明書を郵送した。当日、市内各中学校では配属将校による事変に関する講演会を開催した。後町小学校では午前七時に四年生以上の児童を集め、城山招魂社の参拝を実施、八時からの記念式ののち、校庭で相撲大会をおこなった。松代町でも軍人分会が中心となり午前七時から町内の愛国行進を実施した。小学校の児童、青年学校生徒が多数参加する姿がみられた。篠ノ井中部青年学校では記念式後川柳村付近で発火演習をおこない、塩崎青年学校でも演習を実施した。『信毎』は「記念行事を盛大に催し事変当日を想起意義ある一日を送った」とこの日を評価した。また、東筑摩郡麻績(おみ)村にある川島浪速(なにわ)の聖山荘を訪問した陸軍大将荒木貞夫の「未だ満州事変は終わっていない」という車中談を掲載し、そのなかで「世界の平和が確立されるまでは満州事変は終息したんじゃない、宣戦布告によって初めて戦争が始ると考えて居る古い型の者がまだまだ多い。これからの戦争は宣戦の布告等はありやしない、皇軍意識に徹して固く日本本来の姿に結晶した時こそ初めて満州事変も解決する」という荒木の考えを紹介した。
昭和七年創立一〇周年をむかえた信濃海外協会は三月の評議委員会で資金三〇万円、三〇〇〇町歩の満州愛国信濃村建設計画を可決し、県知事を委員長とする満州愛国信濃村建設委員会が組織された。昭和恐慌による経済不況下、昭和五年の時点で県下一戸あたりの負債が平均八六八円にのぼり、長野県の不況対策は経済改善運動や経済更生運動に集約され、その運動のひとつに満州移民が位置付けられてくる。信濃海外協会は四人の調査委員を満州に派遣し、満州愛国信濃村建設委員会の一員である信濃教育会でもはじめて満蒙視察員を満州に派遣した。以後信濃教育会は毎年視察員を派遣し、教育会内には満蒙研究室が付設される。