営業製糸と組合製糸の動向

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昭和恐慌は、製糸業に深刻な打撃をあたえた。加えてアメリカの人造絹糸の発展も大きく響いた。大正十年代(一九二一~)に、一〇〇斤(一斤は六〇〇グラム)あたり二〇〇〇円台を維持するようになって一時もちなおした糸価も、大正十五年ころから下がり始め、昭和五年(一九三〇)から七年にかけて大暴落した。生糸一〇〇斤あたりの糸価は、最低価が三九〇円(昭和七年)、最高価が六七五円(九年)であり、その後も、最高価で一〇〇〇円を超えることはほとんどなく、大正十年代に比べて最低価で三分の一、最高価で二分の一ほどになったのである。

 この恐慌に県下の製糸業界は、①生産を制限して糸価を維持すること、②経営合理化と技術改善による経費節減、の二つの柱を立てて乗りきろうとした。

 生産制限については、昭和五年、長野県製糸業組合は、一時間の操業短縮と釜数の一割封印をきめている。同六年三月には、政府の指導により県下の製糸工場は一斉に一ヵ月間の操業停止に入った。さらに、十一月には、釜数制限に関する詳細な規定を定め、所有する釜数に応じて削減することとした。

 経営の合理化では、原料繭や薪炭・賄材料の共同購入、生糸の出荷販売の共同化がおこなわれ、六年には県生糸出荷協同組合が作られている。七年九月の製糸業法により共同の施設も作ることができるようになり、十二年には県下のほとんどの製糸業者が二二の生糸共同施設組合に編成された。製糸業者が、養蚕農家や養蚕組合と契約を結んで原料繭を購入する特約取引もおこなわれるようになった(昭和五年、長野市で製糸場と特約販売をおこなっていた農家は、春蚕で二三五戸、八七六五貫、夏秋蚕で一二三戸、二六四四貫であった)。


写真20 更級郡農会指定乾繭保管所 (中沢源嘉所蔵)

 生産技術の改善では繰糸機の多条化がある。従来の四条繰から五条繰、六条繰が中心になり、八条繰からは糸口を取る策緒器がつけられるようになった。昭和四年からは、片倉製糸松本工場をはじめとして二〇条繰も採用された。多条化にともない、煮繰分業で立って作業する時代になった。こうして、一釜あたりの繰糸量と工女一人あたりの繰糸量は昭和二年から昭和十二年にはほぼ二倍に増え、生産能率を向上させた。

 製糸業界の深刻な状況にたいして、国では昭和四年三月糸価安定融資補償法、昭和九年四月輸出生糸取引法などを公布し、県では昭和六年生糸共同出荷組合への融資、七年から九年まで繭購入資金の融資などの保護策をおこなってきた。しかし、このような努力にもかかわらず、倒産や休廃業、賃金引きさげや未払いなどが相ついだ。製糸工女が、いわゆるカフェの女給等に転職することも珍しくなかった。

 昭和二年から三年までの現長野市域における製糸工場は表6の通りである。


表6 昭和2~3年現長野市域の製糸工場(釜数10以上)

 松代の製糸業は、大正期にすでに全盛期を過ぎた様相を示していたが、それでも「松代の二大製糸」といわれた六文銭、六工社を中心にして町の産業の中心は製糸業であった。しかし、昭和五年の恐慌以降は、操業短縮や釜数の使用削減をしてますます規模を縮小していった。昭和七年、六文銭合資会社(現松代支所、松代郵便局のところ)は営業不振になり倒産した。昭和の初め、同社では、当時としては比較的労働環境が整えられていた。大正末には労働時間がきめられ、休憩や昼休みの時間も確保されて昼休みは三〇分ぐらいはあったという。また、自分で煮繭して糸を取っていたが、昭和初年には煮繭専門の人をおき、煮た繭を渡されるようになって能率も上がったという。しかし、糸質検査によりきびしいセリプレーンといわれる検査法が導入されるようになった。同年この六文銭のあとを整理縮小して、約二〇〇釜をもって北信共立製糸が設立された。社長には、六文銭に引きつづいて小山鶴太郎がついた。昭和十年には新株の募集や増釜計画もあったが、その後振るわず昭和十七年には閉鎖された。松代町東条屋地にあった松代製糸もこの不況を乗りきれずに倒産した。


写真21 大正期の松代町の六文銭製糸場 (『松代附近名勝図会』より)

 昭和十年の県蚕糸課調べの工場名簿によると、釜数削減による生産制限がすすみ、本六工社では設備釜数三〇四のところ使用釜数一六八、北信共立製糸では、設備釜数五三八のところ使用釜数は二〇八であった。この二社のほかには、設備釜数が二〇~四〇ほどの小規模工場が六つあった。

 吉田には、長野製糸長野工場があった。長野製糸は、大正十三年(一九二四)、越寿三郎が須坂の大倉製糸を買収して設立したもので、資本金一六〇万円、釜数五六八であった。この長野製糸が、さらに翌十四年、吉田に長野工場を設立し、釜数五五四で操業を開始したものである。しかし、昭和四年末からは、閉業に追いこまれており、賃金不払い問題が長びいた。

 いっぽう、組合製糸では、営業製糸がこの恐慌のなかにあって減退したのにたいし、昭和二年から十年まで県全体で工場数七六から九七へ、釜数九千余から一万余へと増加傾向を示している。営業製糸にくらべて総生産費が抑制できて有利であったが、製糸業においてだけでなく養蚕組合にまでつなげて蚕種の統一、稚蚕共同飼育、養蚕の技術指導等をおこない、原料繭質の統一と向上に力を入れて糸格を上げるなどの対応も取られていた。昭和五年、長野市で組合製糸に供出している農家は春蚕で二八五戸(六九一二貫)、夏秋蚕で一八六戸(二七五八貫)あった。篠ノ井町の更級社は昭和二年三月に操業を始めている。しかし、十年以降は、組合製糸も整理統合は避けられなかった。

 昭和恐慌によって深刻な打撃を受けた製糸業は、県による蚕糸業、製糸業偏重の産業構造の見直しと昭和十二年からの戦争突入により決定的な打撃を受けた。十三年国家総動員法により経済統制と軍事化が進められ、製糸業は抑制され軍需産業に振りむけられることになった。十六年三月、蚕糸業統制法が公布されて日本蚕糸製造株式会社が設立された。これにより、蚕種、繭、生糸などの生産と配給すべてが統制されるようになった。さらに、十八年には、閣議決定によって戦力増強のための企業整備の対象となり、労働力や工場施設の転用が進められたのである。

 松代の六工社は、昭和の恐慌以来、生産設備の縮小を中心に対応していた。しかし、深まる統制と軍事化のなかで経営を維持することは困難であった。そして、昭和十五年ころいったん片倉製糸に買収された。のちふたたび当時の町内の壮年団が中心になって買いもどしているが、経済統制と軍事化が進められるなかで営業権を譲渡し賃貸料を受領する形の合同によって、昭和十七年、日本蚕糸製造株式会社松代工場として組みこまれていった。なお、同社は終戦とともに解体され、松代工場も閉鎖されたが、昭和二十一年には原松代製糸所として復活している。松代の製糸業の中心として展開してきた六工社であったが、こうして明治七年(一八七四)七月の開業から七〇年余りの歴史を閉じることになった。

 戦後、松代で復活ないしは設立された製糸工場は、昭和二十三年三月現在(県商工課調査)で、前述の原松代製糸所(従業員一〇〇~五〇〇人)と松代真綿生糸協同組合(従業員三〇~一〇〇人)の二つのみでどちらも内需向けの生産であり、松代の製糸業はかつての繁栄をなくしてしまった。