長野工芸指導所と木工業

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長野市の工場数、従業員数、生産額などの昭和二年(一九二七)から昭和十一年の工業のようすは、表7のようである。


表7 昭和初年の長野市の製造戸数

 昭和五年、六年には恐慌の波を受け、生産額や従業員数に大きな減少がみられるが、その後は回復のようすを示している。工産物別では、生糸は恐慌直後に従業員数、生産額に大きな落ちこみを見せつつも、長野市の工業生産のなかで依然として大きな位置を占めている。また、菓子類や酒、味噌、醤油、めん類などの食糧品の生産が多いのもこの期の長野市の工業の特色である。なお、表には示されてないが、昭和初期の長野市の工業の動きのなかで、大正期に新たな展開を示した印刷業、出版業、国鉄長野工場や明治期に開業した前田鉄工所を中心とした鉄工業もこの期に着々と発展していた。

 長野市の主要工産物中、生産額や製造戸数、従業員数をみても木製品の占める位置はこれまでも小さくはなかった。また、昭和三年から八年のあいだにおこなわれていた大礼記念国産振興東京博覧会をはじめ名古屋、京都、満州大連などで開かれた大博覧会などにも、長野市からは多数の木工家具が出品されて好評を博していた。さらに、昭和九年「長野市立工芸指導所」が設置され、とくに木工家具類の製造指導助成がなされるようになって以来、業者の研究努力もあって長野市の木工家具製品は評価が高まり、当市特産品中の出色のものとなるにいたった。


写真22 長野工芸指導所の試作品 (『長野市勢要覧』より)

 家具製造については、専業として取りくむものもあったが、多くは農村方面に散在し、農家の冬期間の副業として製作にあたっていた。高田地区にはこうした家具製造にあたる農家が多くあり、その製品の大部分は箪笥(たんす)、長持などであった。

 木工製品製造では、昭和に入って県内の松本その他の業者が斬新なアイディアを加え、盛んに県外各地にこの販路を開拓しつつあり、昭和九年、このような状況の発展と、県内の各種工芸を指導することを目的として工芸指導所設置の計画が持ちあがった。折からの不況による県内財界の経営の多角化とあいまって、各種工芸の改良進歩の動きもみられることから、県もこれを積極的に助成しようとしたのである。長野市では、栗田地区にあった市役所出張所を改築してここに木工、染織、皮革、金属等の各種工芸の指導所を招致しようと企画し、積極的に活動をおこなった。しかし、県当局者の移動等により実現できなかった。

 そこで、市では、独自の立場で木工を中心とする指導所の設置を計画しすすめることにした。四二〇〇余円の予算をもって千歳町一四五番地の長野木工会社事務所跡を借りいれて改築し、昭和十年九月に「長野工芸指導所」が開所した。技手一人、助手徒弟各一人を置き、木工旋盤、手押鉋機、丸鋸機、帯鋸機、挽抜機、研磨機、噴霧塗装機等が設置されて、市内木工業者の共同利用の便をはかると同時に木工家具業者の指導助成に当たることになった。長野工芸指導所の主な事業は表8のようである。


表8 長野工芸指導所の主な事業

 その後同所では、昭和十年十月、長野市で開催された大日本山林会総会のさいに出席された皇族の宿泊所の調度設計をおこなったり、十一年五月、長野市を訪れた閑院宮に「御脇置棚」の献上をおこなったりした。また、同年六月には、同所において木工家具徒弟競技会が開催され、四〇人の参加者があった。

 こうして、長野市の特産品といえる家具製造の指導助成には工芸指導所が重要な役割を果たすようになったが、これに先だって、昭和九年十月には、当時わが国の工芸界の権威者であった和田三造を招いて郷土工芸批判会が開かれた。また、蔵春閣において長野家具工芸試作展覧会が開催され、出品者四五人、出品点数は一五〇点におよんだ。昭和十一年四月におこなわれた商工省工芸展覧会には、長野市から木工家具二八点が出品され、審査の結果、過半数の一五点が入賞している。