長野商工会議所は市と協力して、従来から研究してきた名勝地の開発紹介につづいて、遊覧都市としての新しい方面の研究とともに適切な施策をほどこすために、昭和五年(一九三〇)十月には善光寺遊覧都市研究会という常設機関を設け、遊覧客の誘致宣伝等について検討した。不況による商業不振は商工会議所と市にとって差しせまった問題であった。
長野市の宿泊人員からみると、二年から四年までは一年平均二一万三〇〇〇人、ご開帳の五年が二二万二〇〇〇人で平年とくらべてわずかに一万人増にすぎなかった。その後、六年にはさらに一三万七〇〇〇人、七年には一三万四〇〇〇人と大はばに減少していったが、とくに宿坊については県外客の落ちこみが激しかった。
昭和五年の善光寺ご開帳を迎えたとき、いままでとちがった光景が長野市付近の温泉場の旅館業者間にあらわれた。山田、戸倉、野沢の各温泉場は善光寺参拝客の確保に一所懸命になっていたうえに、直江津の「旅舎組合」も大正七年(一九一八)の回向(えこう)(ご開帳)の成果を教訓に、三〇〇〇枚のポスターを長野方面に張りだしたので、ひざ元の院坊、市内旅館業者はまったく意表をつかれた。
この不況期の商業沈滞ぶりは、長野駅到着の各種貨物量を三年と五年について比較してみてもわかる。米は一万三七〇トンから九六〇三トンへ、砂糖は三九四六トンから三七四五トンへ、清酒は一二九八トンから一一六五トンへと、いずれも減少したのにたいして、小麦粉は三〇七九トンから三一六六トンへ増加し、塩は一三五〇トンから一三八一トンとほぼ横ばいであった。すなわち主食の米を減らして小麦粉に置きかえ、不要不急の嗜好(しこう)品は削減されたのである。
活気のない商店街も、師走になると最後の商戦を展開した。五年、中央通りにある柏友呉服店が近隣の商店と組んで、同店四階建て全部を開放し、合同大デパートの名のもとに大売りだしをした。これが意外に好成績をおさめ、主催者側は市民に散財させる工夫をこらす重要性を知った。いっぽう、大門町南方の商店も連合して旅館を借りうけ、大デパート売りだしと称して福引付き大売りだしを計画し、自動車で宣伝を始めたり、権堂の商店街でも連合して相生座を借りうけ、連合大売りだしを広告した。
長野市内では大正十二年の合併以後、人口移動がつづいており、これが戸口減少地区の商業をいっそうきびしいものにした。長野市が、合併以後一一年間の戸数調査をおこなった結果、諏訪町、長門町、岩石町、東町、西之門町、立町、栄町などには往時の華やかさがなく、戸数はこのあいだにいずれも二、三割減少していた。さらに市内の小売業は市内販売に大きく依存しており、必然的に小零細商業者の「共食い・共倒れ」を招いていた。
大正期からの市民の生活スタイルの変化も商店街のようすをかえた。長野市営公益質屋について、八年十一月中の入質総数七〇一点のうち、衣類が六二七点(約四〇〇点が女物の着物)を占めていた。一般的に、このころの質屋は金貸しを主業にするものが増加し、看板どおり質貸し主体の店は半数ぐらいに減った。その蔵のなかは、古着の質ぐさで満杯となっていた。世の中の流行の移り変わりがはげしく、古着の処分がにぶっているため、古着屋は買いしぶった。質屋と縁の深い古着屋の大部分は衣服店に看板を塗りかえた。市内六〇軒の業者中、昔ながらの古着専門店はわずかに数軒で、古着にかわって既製洋服が店頭で幅をきかしているのが目だった。不況下で市民生活の一部である服装の変化を読みとることができる。
また、市民生活の変化は、新しい業種を登場させている。十年七月の長野警察署の調べでは、市内カフェーが六四戸、女給は一三五人で、市内の芸者一一六人を超していた。そのカフェーが一大脅威と感じていたのはパチンコ屋であった。すなわちチップはもちろん五銭の釣り銭でもパチンコの資金に持ちかえるほどで、女給の収入にはならなかった。パチンコ屋は十年に東之門に一軒、つづいて権堂に二軒が店開きをしたのに始まって続々と開店したが、警察ではその弊害をみとめ、締めだしをはかった結果、市内で二二軒に落ちついた。最初はもうかった経営も、客の腕が上達し、元手一銭でゴールデンバット(たばこ)二つももちかえるものが出るようになって、初期の意気ごみはなくなっていた。
昭和九年の凶作をへて、翌年には市街地も活気を取りもどしてきた。十年十一月の長野恵比須講には、景気をよぶ中央通りから権堂町、千歳町、県町、桜枝町などの商店街をはじめ、城山蔵春閣で開催の長商実習販売、その他陳列館屋上の一〇銭均一の即売会場等は、電車・自動車等から吐きだされる懐具合のよい近郷近在からの人出で埋まった。
十一年正月の初荷は、前年の繭値がよく、米作も悪くはなかったので、開店をまつ人の群れでごったがえした。定刻午前二時、商店は大戸をあけて一斉に店開きをした。初うり景気でいままでの不況を取りもどそうという商人、夜明けの六時、七時ともなると、店頭は身動きもできないほどの人の出となった。店では相当の売りあげがあり、前年より三割増加、それにこの年は大口の買いあげが多くて、客に倹約する態度はみられなかった。
十一年七月の市税戸数割り原案によれば、恐慌期を脱して上位所得者には入れかわりがみられた。軍需工業の波にのった南石堂の前田濱五郎(現前田鉄工所)が、前年の六〇〇〇円台から一躍二万八〇〇円(第八位)に、自動車業界の宇都宮宿(まもる)は五〇〇円から一万六〇〇〇円台(一三位)に、丸為呉服店が三〇〇〇円から一万八〇〇〇円に増大した。