昭和二年(一九二七)四月、従来の商業会議所法にかわって商工会議所法が制定された。これは会議所の選挙資格標準であった営業税が廃止されて営業収益税が新設されたことにともなうものであった。
かつて、長野商工会議所の有権者は一四一一人で、そのうち女子は七九人にすぎなかったが、その五〇人は料理業を営むものであった。これまで議員選挙の女子有権者の多くは、男子に委任状を託して投票所へは姿を見せなかったが、会議所法の改正によって本人が投票しなければならなくなった。新法による四年二月の選挙では、投票総数一二〇一票、棄権六四票、棄権率約五パーセントであった。前回の二〇パーセント強にくらべると、有権者が一躍二倍余に増加したにもかかわらず、好成績であった。従来の選挙では無競争と相場がきまっていたが、今回、三六人の定員にたいして、二人が落選の憂き目をみなければならなかったので、開票場外では折からの寒風にもかかわらず多数の人びとが殺到し、刻々場内からの報告に気をもみ、市会にも劣らない関心が集まった(『長野商工会議所六十年史』)。
その後間もなくして昭和恐慌に見舞われた。長野商工会議所は日々、市民の購買意欲の振興、業者間の仲裁、融資斡旋などの対応に追われた。同会議所商業部では、ますます深刻化する商況から、その打開策として商店界が一致して大々的景気招来運動を講ずるよう、種々各地の運動の比較研究をおこなった。五年十月、協議の結果、つぎの恵比須講には、全市一致して「親切デー」の項目はもちろん、さらに廉売等を予定し、そのうえ、翌春早々大規模に商業祭を開き大いに活気をつけることにした。
長野市内のタクシー料金問題については、種々紛争中のところ、長野温泉自動車がタクシー組合の協定を破り、市内三〇銭(回数券)としたことに組合側は大いに驚き、いよいよ組合対協定違反者の争いが激しくなった。これにたいし、商工会議所交通部では時節柄、市内自動車運賃値下げを希望し、たびたび組合側に提案したが実行されずにきた。この機会に市内自動車の妥当な運賃を提案するため、商工会議所関係者が県保安課の見解を参考にしたうえで、少なくとも三〇銭で相当な利益があると認められる以上、最低料金をこのさい三〇銭に規定するよう意見を述べ、了解をうることができた。
昭和七年に政府が時局匡救(きょうきゅう)費の名のもとに、中小商工業者にたいして、低利資金を融資することになった。長野県へは信用組合を通じて三〇万円、勧業銀行に三〇万円を融資することになったが、種々の事情によってその一部を貸しつけるにすぎなかった。そのために、商工会議所は長野市と協議のうえ、大蔵省・商工省・興業銀行に交渉した結果、当市申込者にたいしては、直接興業銀行から貸しつけがおこなわれるように便宜をはかった。このほか、中小商工業者の相談相手となって、経営指導や金融相談にのる常設機関として商工会議所内に、長野商業相談所が十一年十二月に開設された。
商工会議所では、これらの差しせまった問題に対処するだけでなく、将来構想の企画もおこなっていた。長野市の根本的調査をおこない、更生をはかるため、七年に同所議員による経済対策委員会の設立を決定した。その実行の第一歩として、長野市交通経済拡大に関し、長野・戸隠間自動車遊覧道路の新設、鬼無里・北城間県道改修を計画し、それを長野市経済改善委員会に提出し、両者提携して事業を遂行することになった。
また、工業の振興に関する会議所の運動としては、長野県総合工芸伝習所の創設と鐘紡長野工場誘致があげられる。伝習所については、商工業の発達と余剰労働力を活用し、時局匡救に資するため、昭和八年度から県施設として創設することになった。鐘紡については誘致運動の結果、ついに九年になって設立が決定した。長野市吉田町で昭和二年度に工女六五三人を抱えていた長野製糸株式会社長野工場(越栄蔵)は恐慌による倒産後、長野純粋館製糸所(小山邦太郎ほか七人)に引きつがれたが、七年には工女は三九六人に縮小を余儀なくされていた。こうして製糸業から紡績業への産業構造転換が否応なく迫られていたときの一成果であった。
交通網の整備、税金対策の請願、観光事業の推進なども活発におこなわれるなか、不況対策として七、八年以降、商工会議所の指揮によって商権擁護運動に力を入れるとともに、いっぽうでは、産繭処理法案、米穀自治管理法案にたいする反対運動に全力が注がれた。
商権擁護運動は産業組合の積極的な購買販売活動によって、小売商が窮地に立たされたことから起こった。産業組合はもともと税制上の特典があったうえに、八年からの産業組合が組合員数の拡大をはかり、購買・販売事業の充実によって農家の生活用品、農業資材、農産物はすべて組合を通じて売買するように統制されたのである。商工会議所は、組合が不当に優遇されているとして、つぎのような点をあげて、小売商の商権擁護に乗りだした。①法規に違反して組合員外に商品を販売したり、外交員を派遣して組合員外に購買を勧誘している、②購買組合は政府の過大な保護にもとづき、廉売主義により市価を攪乱(かくらん)し、不正競争をおこなった、③県購買組合連合会はその事務所、会議室などはいっさい県庁舎内を利用し、その会議には県職員が臨席し、あたかも県営事業の観を呈した、農民の信用は絶大であった、④一般肥料商の信用を傷つけるような種々の悪宣伝をはなち、あるいはあらかじめ価格を示さず商人より必ず安価にすると宣伝した、⑤政府の保護助長を受け、他方において組合の活動が法律の許す範囲を踏みこえて、商工業者を圧迫した(『長野商工会議所六十年史』)。
日本商工会議所が八年十一月の臨時総会で、全日本商権擁護連盟を結成したのにあわせて、長野県でも支部大会を開き、長野商工会議所会頭田中弥助を支部長とする同連盟長野県支部を組織し、早速、宣言と決議をおこなって、知事、県会議長、地元貴・衆両院議員に陳情するなど、積極的な運動を展開した。十年三月になると、全日本商権擁護連盟は組織がえされ、産業組合事業にたいする制約を各方面に陳情請願することになった。長野商工会議所等主催の商権擁護大会・講演会が、同年四月十五日、城山蔵春閣において開催された。内部的には各郡、市を単位として長野県連盟の分会を設置し、商権擁護運動の拡大強化をはかることに決定した。
しかし、十二年になって産業組合対中小商工業者の問題に関して、挙国一致の協調をはかる意味において、産業組合側では新規の進出計画をおこなわないこととし、中小商工業者側でも産業組合をいたずらに刺激する言動をさけて、休戦状態になった。