銀行の破綻と八十二銀行の成立

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昭和二年(一九二七)一月、関東大震災後の処理問題における国会での大蔵大臣の不用意な発言は、東京渡辺銀行の取りつけ騒ぎ(預金払い戻しが殺到し銀行が支払いできなくなる)を引きおこした。騒ぎは東京だけにとどまらず、四月、台湾銀行の休業から銀行取りつけは全国各地に拡大していった。この金融恐慌に、政府は、緊急勅令の支払猶予令を出すなどの対策に追われ、翌昭和三年三月一日、最低資本金を一〇〇万円(人口一万以下の地は五〇万円)とする新たな銀行法を公布して弱小銀行の整理促進をはかった。

 おりから、わが国の経済はより深刻さを強めていた。大正末年からの慢性的な不況に加え、昭和五年一月の金解禁実施に向けた緊縮財政、また実施後の緊縮財政による不況、そしてニューヨークからひろがった世界恐慌の波を受けて、五年秋からは糸価・繭価が大暴落して昭和恐慌が始まった。このような状況のなかで、県下の普通銀行は、昭和二年末六二行から新銀行法施行猶予期限の昭和七年度末までに一七行に整理されていった。

 昭和二年の金融恐慌は全国的なものであったが、県下の金融機関においては取りつけも大きな問題とはならなかった。しかし、恐慌の間接的な影響を受け、また糸況不振、霜害、農産物価格の暴落などによって預金払出は増加し、業績は一般に振るわなかった。同年末、県下本店銀行六二行のうち、資本金が一〇〇万円に満たない無資格銀行は四八行(七七パーセント)あり、この結果、昭和三年に入り新銀行法に沿って銀行の合併が一段と促進されることになった(表9)。


表9 本店銀行数の推移

 昭和三年四月十五日、東北信地域の中信銀行(上田市)、長野実業銀行(長野市)、小諸銀行(小諸町)、鴻商銀行(飯山町)、栄銀行(南佐久郡栄村)、西条銀行(埴科郡西条村)、綿内銀行(上高井郡綿内村)、永続銀行(小県郡神川村)、小松原銀行(更級郡共和村)の九行が合併して設立されたのが信濃銀行(通称「信銀」)である。本店は上田市で頭取に小諸銀行の柳沢禎三、副頭取には長野実業銀行の小林久七が就任した。信濃銀行は、資本金一四〇〇万円(県下第二位)、預金三六〇〇万円(県下第一位)、貸出金四二五九万余円(県下第一位)で県をはじめ広く自治体や産業組合、農家、商工業者等を取引先とした県下最大級の銀行となった。


写真28 北石堂町にあった西条銀行長野支店
(『市区改正記念写真帳』より)

 昭和四年以降も銀行の合併や解散がすすめられた。第十九銀行や六十三銀行による吸収合併や四行合併による小県銀行(小県郡泉田村 資本金一〇二万円)、五行合併による南信銀行(大町 資本金一〇〇万円)の設立などがみられた。長野農工銀行は農工銀行法による明治三十一年の設立時から資本金は一〇〇万円であったが、全国的な大勢から昭和五年十二月、日本勧業銀行に合併した。

 この間、重なる不況のために県下銀行の業績は低迷をつづけていた。加えて、世界恐慌による生糸相場の大暴落は製糸家の倒産続出や養蚕農家の経済に甚大な被害をもたらし、とくに蚕糸業に依存していた県下の経済は全国でも類を見ないほどの打撃をこうむることになった。

 昭和五年十一月六日、信濃銀行は突然支払停止を発表した。開業してわずか二年七ヵ月にして破綻(はたん)に追いこまれたのである。この取りつけさわぎは県下全域に拡大し、預金者の自殺や商店の閉業があいつぐなど深刻な金融恐慌をもたらした。県下各地で預金者会議が開かれ、その対策に追われた。川中島では、十二月十七日、周辺五ヵ村から一二五人の預金者や株主が駅前喜多屋に集まり、県債を発行して援助するよう国会や県会議員を初めとして各方面への陳情を決議している。また、預金不払いの打撃を受けた県下の産業組合は一五八にのぼり(『信毎』)、役員会や総会では一時幹部の責任が追及されたが協調切りぬけ策へとかわっていった(表10)。長野市では、信濃銀行に二一万円余りの公金預金があった。市税約六万円、県税約八万円、その他市教育会、市農会、体育協会、御開帳共賛会等が収入役に委託した約七万円である。支払い停止発表と同時に、市会議員からなる委員会を組織して検討した結果、翌年一月十五日、信濃銀行預けいれ問題は市の責任として対処することになった。


表10 産業組合の信濃銀行預金状況関係分

 信濃銀行の破綻の原因としては、深刻な不況下にあったことだけでなく、銀行合併をすすめる国政に便乗した急場の合併で、性格や内容を異にする数多くの銀行が合併していること、持込資産の整理や債券保全が不十分だったこと、経営方針や責任体制の確立が不十分であったことなど創立以前の問題が考えられている。そのため、立ちなおりも困難をきたした。

 信濃銀行の支払停止が長期化したために、再建が危ぶまれ、県下の銀行や信用組合に取りつけがひろがって、昭和六年末までには一四行が休業状態となった。いっぽうで、郵便貯金は急増、県外銀行の安田、日本勧業銀行の預金も急激に増加し、取りつけられた資金は郵便局を中心に中央に流れていった。県内の銀行の不信感はいっそう深まり、県内の金融は梗塞(こうそく)状態になっていった。

 広い地域で信濃銀行と営業基盤を同じくしていた六十三銀行(本店長野市)は、悪質な流言が取りつけに拍車をかけ、経営努力にもかかわらず預金を大幅に減らすことになった。第十九銀行(本店上田市)は、営業基盤が諏訪を中心とする南信であったことと製糸金融を中心にした預金に頼らない経営であったため預金引きだしの影響は少なかったが、つづく製糸業不況のため多額な焦げつきを抱えて困難な経営状況にあったことは、六十三銀行と同じであった。「最近両行共カナリ経営ノ困難ヲ告ケ来リ、然モ若シ一方カ破綻セハ直チニ他方ニ波及スヘキ情勢ニ立到リタル為メ之ヲ救フノ途ハ合併ニヨルノ外ナキコトゝナレルモノナリ」(日本銀行考査局)。こうして、昭和恐慌と信濃銀行の破綻の影響は、県下二大銀行であった六十三銀行、第十九銀行にもおよび、県内の金融界は安定化にむけて新たな再編成の必要にせまられたのである。


写真29 大門町にあった第十九銀行長野支店 (『市区改正記念写真帳』より)

 第十九銀行と密接な関係にあった三菱銀行の瀬下(せじも)清常務取締役(佐久市出身)は、県下の金融状況に関心を寄せ、飯島保作頭取に六十三銀行との合併を勧奨していた。また、六十三銀行の小林頭取は、日本勧業銀行の小林栄成理事(更級郡出身)を通じて同行馬場総裁に県下の金融安定についての協力を依頼していた。小林理事は、長野農工銀行が日本勧業銀行に合併したさいの仲介役でもあった。

 三菱銀行・日本勧業銀行両行の援助と大蔵省・日本銀行の了解のもとで、合併の基本構想は昭和六年春から東京において進められた。県下の不安な金融界の実情を考慮し、交渉は両行行員にも知らされず極秘裏のうちにすすめられていた。

 昭和六年六月八日、一八ヵ条からなる合併仮契約書の調印がおこなわれ、十日、合併要旨が発表された。「十九、六三両銀行 合併協定成立す 資本金を半減し不確実債権を銷却 新銀行としては八月一日から」と、六月十日付『信毎』では、このように報じた。合併要旨は、安定した信用ある新銀行を設立し「本県財界の安定克服」と「銀行自体の健全なる発達」をはかることにあった。合併にむけては、信濃銀行の轍(てつ)を踏まないために両行の資本金を半減して不確実債権の処理にあてることとし、三菱銀行の資金の保証のもとに進めるとした。

 この突然の合併発表は、県民にとって衝撃であったが、期待をもって受けいれられた。鈴木県知事の談話(『信毎』)にも、「洵(まこと)に時宜に適した事」「新立銀行は非常に力強くなるものでその信用は一層加わるであろう」「目先き需要期に差迫った蚕糸金融その他商工業資金の疎通も円滑に運ぶもの」とある。

 こうして、八月一日、設立総会が旧六十三銀行本店において開かれ、新銀行「株式会社八十二銀行」が誕生した。資本金一三三一万二五〇〇円、本店は長野市大字南長野一五九七番地(旧六十三銀行本店所在地)とした。取締役は一〇人以内として、頭取には、合併に尽力した飯島保作第十九銀行頭取が予定されていたが、新銀行創立を目前にした七月二十六日に急逝したため、小林暢元六十三銀行頭取が、副頭取には黒沢利重第十九銀行元常務が就任した。行員は、新規採用の形で任用している。行名については、三菱銀行に一任し、「六十三と十九をたして八十二」という提案を採用した。


写真30 八十二銀行の設立総会が開かれた旧六十三銀行本店
(『市区改正記念写真帳』より)

 その後政府は、昭和十一年、地方銀行の一県一行または二行体制をきめ、さらに合同をすすめた。そのねらいは、戦時体制にそなえて金融統制を目的とした地方的中央銀行を設立することにあった。