大正末期から昭和初期にかけての長野市の歳入決算総額は、年々増加をつづけ昭和二年度(一九二七)には一四六万円をこえた。その後の四年間は一二〇万円から一三〇万円台で推移している。七年度には浜口内閣の地方財政緊縮方針の影響もあってか、一時的に一〇八万円にまで下降しているが、翌八年度には一八五万円とその反動で一・七倍に急増している(図2)。
歳入のうち市税の占める割合は、昭和元年度には五四パーセントであったものが年々減少し、八年度には二四・四パーセントにまで落ちこんでいる。翌年からはややもち直したものの、その割合は三〇パーセント前後のまま推移している。四年の世界恐慌以来、市民の経済状態は逼迫(ひっぱく)し租税の負担能力にも大きな影を落としていた。市税の一戸平均負担額は、四八円四〇銭から少しずつ減少し三二円程度にまで減少した。これは、世帯数の若干の増加はあるが、市民に多額の税負担を負わせることができず、図2にみられるように市税収入そのものが減少したことが影響している。納税義務者数にたいする滞納者数の割合は、県税と市税では五年度から八年度にかけて高率を示している。その結果、市では税収の減少分の補填(ほてん)は市債に頼ることが多くなり、財政面の悪化は深刻さを増していった。歳出を見ると、経常部は五〇万円から五七万円程度でほぼ一定している。そのうちの五〇パーセント強を占める教育関係費は、三〇万円前後で大きな変動はない。いっぽう、臨時部の動きは激しく土木費・公債費は毎年大きく変動している。とくに、八年度の一二四万円は突出していて、そのうちの九三万五〇〇〇円(七五・三パーセント)が公債費であった。
大正十五年(一九二六)の税制改革により、府県税戸数割の廃止にともなって市町村税として特別税戸数割が創設された。この特別税戸数割について「見立による賦課方法に不公平がある」と問題にされてきていたが、『信毎』の報道には「病気やその他の災厄にあわないうちは細々ながら暮しを立てて行かれるという程度の細民階級に、二円三円という課税をされたのでは気の毒でならない」という方面委員の談話や、「戸数割は富豪階級の負担を軽くして中以下の下層階級の担税の重きを如実に物語っていて、社会政策的な意味等は全く含まっていない」との論評すら見うけられる。また、「借金・税の滞納等で社会的に顔向けができず夜逃げの流行」などとして、市内に五〇〇戸からの空き家があるとも報じている。その後も、この特別税戸数割は減額増額をくりかえし論議の的となっている。
このようななか、松代町では町税の一二パーセントにあたる特別税戸数割の四年度第四期分四四五〇円を減免することとした。一戸平均では二円五〇銭の負担軽減となった。これは、予算編成にあたって支出の軽減につとめた結果とされているが、実際の効果についてははっきりしていない。
市税の滞納・欠損額の市税調定額にたいする割合は、昭和二年度の二・七パーセントからしだいに増加し七年度には七・三パーセントにまでなった(表11)。四年度分の滞納整理にあたって、市では納税督促状の発布だけでなく差しおさえという強行手段にうったえている。『信毎』の報道によると、五年五月に税務課職員など二八人を総動員して「滞納征伐」にあたった。「滞納者宅に車を曵(ひ)きつけ情容赦もなく片っ端から赤紙物件を市役所に引きあげたところで、大々的に競売に付する覚悟」で始めたとある。差し押さえ物件数は一日一〇〇〇件と膨大な数であったが、四年度の未整理滞納額は二万八〇〇〇円をこえていた。自転車・たんす・火鉢・蓄音機など競売に付された物件には市民の買い手はつかず、買いとり業者も安く買いたたくため、思うような収益があがらないまま倉庫には差し押さえ物件の山が日ごとに高く積まれたという。差しおさえ人数は年々増加してきていたが、五年度には一万七〇〇〇人のピークを記録している。
寺尾村では、村会議員や村の顔役名誉職を総動員し、さらに軍人分会や青年会役員の援助もうけて滞納整理にのりだしている。また、各市町村では納税組合設置を奨励し租税完納の運動を起こしたりして、納税成績の優秀な納税組合には奨励金を交付したり割り戻し金を交付したりする恩典をあたえた。そのため、納税組合組織が発達している市町村では納税成績が比較的良好とされていた。市内では、二年度には一六組合・組織組合員七七九人であったものが、九年十二月末には四五組合・一七九〇人に、十一年度末には一二〇組合・五一二七人にまで増加している。松代町でも、九年度には一〇〇組合以上の新設がおこなわれた。
こうした努力もあってか、長野市の差しおさえ人数は六年度以降に、また滞納・欠損額の率も八年度以降には徐々に減少している。
いっぽう、市は五年七月三日に長野県を通じ文部大臣あてに「貧弱市認定申請」を提出している。その申請内容は、「市町村義務教育費国庫負担法の施行に関する勅令第二号により、直接国税一戸平均負担額が全国平均に達せず、しかも特別税戸数割一戸平均負担額が全国平均を超過しており、とても負担にたえられないから義務教育費国庫支弁額を増額してほしい」というものであった。これによって財政難をつづけてきた市は、みずからの手で法律上の「貧乏市」の看板を掲げることとなった。全国の市ではきわめて稀(まれ)な例であった。
六年四月、長野市では「仏都十ヶ年財政計画」を発表し財政難克服の方針を示した。これによると、五年度の財政状況を財政難の頂点と見たうえで市民の税負担軽減を主眼として歳入歳出の予算計画を作成し、六年度は九〇万円をややこえるものの七年度からは八〇万円台に押さえるようになっていた。しかし、施設計画や事業計画をまったくふくんでいない計画だったため、「絵に描いた餅」にすぎず実際の歳入歳出は一〇〇万円をはるかにこすものであった。