地方税制の改正と地方債の発行

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大正十五年(一九二六)の税制改革は明治以降もっとも大規模なものであり、税負担の均衡をはかること、とくに中小所得者層の負担を軽減して社会政策的効果をあげるための税体系の整備を目的としていた。これはのちの昭和十五年(一九四〇)におこなわれた、軍事費の増大と戦時経済政策に対応するための国税・府県税・市町村税の全般にわたる税制大改革までつづけられた。

 府県税・市町村税にかかわる主な改正点はつぎの六点であった。①府県の家屋税を一般的に創設し、市町村税はこれに付加税を賦課する、②府県税としての戸数割を廃止し、市町村税として戸数割を創設する、③戸数割を市町村へ委譲した代償として、府県の所得税付加税を増率する、④府県の営業税・雑種税を整理する、⑤市町村の所得税付加税を廃止する、⑥府県の営業税は、国税営業収益税を賦課されないもののみに賦課する。

 このなかの特別税戸数割については、その賦課算定方法や賦課額に不公平があるとしてしばしば論議のもととなった。これにたいし県では、「納税義務者の所得額及び資産の状況により、その資力を算定して賦課すべき規定にかかわらず、市町村の中には依然見立制当時の取扱を踏襲し、ためにややもすれば課税の公平を失するのみでなく、違法賦課に陥るものあるは誠に遺憾とするところである」として、戸数割資力算定標準例を示している。その資力調査項目の内容は、資産状況調査では土地・建物・立木・公債および社債・株式・電話加入権など一六項目、所得状況調査では貸宅地・田畑自作・田畑小作・田畑貸付・山林収入など一五項目の多岐におよんでいる。また長野市の雑種税としては、自転車税・荷車税・金庫税・扇風機税・屠畜税・犬税があった。

 家屋税をめぐっては、昭和二年市当局と善光寺一山の院坊とのあいだで紛争が起きている。市当局は「院坊は社寺建物の除外例にはあたらず、住職や家族も居住して専用しているうえ、事実上は宿屋稼業までおこなっているので、家屋税付加税の賦課は可能ではないか」として、財政難のなかにあって市の収入源としておおいに期待した。いっぽう、院坊側は「院坊は寺院取締法の適用を受け一般寺院と同様の取扱いを受けている。また、信徒の宿泊は純然たる営業であるという議論は皮相な観察からきているもので、院坊は営業手段ではない」と反論した。市当局は信徒からの宿泊料収入について調査し、ある院坊では「日本銀行に三五万円の預金があり、他の銀行分も合算すれば五〇万円はくだらない」として、当然賦課は可能という見解をもっていた。しかし、「院坊は非寺院であるという証拠が得られず賦課は不可能」とする県当局の指示により、家屋税付加税の賦課を断念している。

 昭和三年七月には、県の調査で院坊のなかに登録手つづき上廃寺の扱いになっているものが一一寺あるとわかり、県当局は「廃寺であれば建物として家屋税の賦課は可能」との見解を示し、市会でも財源問題にからんで取りあげられた。県当局からの不意打ちをうけた形の院坊側は、「明治二十四年(一八九一)六月の大火で焼失した院坊を再建したが、そのさい届けでを怠ったため寺院明細帳に登録されていないだけで、実際は寺院として三〇年以上も使われている」と反論し、市当局に県とのあいだに立って穏便な解決をはかるよう依頼した。けっきょく、正規の落成届を提出することで県側も了承した。院坊への家屋税賦課問題はこうして解決をみたが、県も市も財政難にたいする苦肉の策として打ちだしたものといえる。


図3 明治24年6月2日の大火で焼失した院坊等の範囲 (『長野市史』より)

 財政難を補うために市債の発行(起債)をおこなったことは前述したが、歳入にしめる割合は大きく、八年・十一年などは市税収入をうわまわっていた。起債にあたっての発行条件としては、①旧債の償還、②地方公共団体の永久の利益となるべき支出、③天災をあげ、大蔵大臣の許可が必要とされた。

 大正十四年から昭和八年までの市債をまとめると表12のようになる。その主たるものは、学校建築関連や道路改修・上水道布設拡張などであるが、六年以降は失業救済事業としての土木工事・橋梁架けかえ工事や農村振興のための土木事業に変わってきている。また、六年五月の信濃銀行の預金支払い猶予(払戻延期)にかかわる起債もあった。


表12 市債一覧(大正14~昭和8年度)

 四年からの学校建築関連の起債は、市の設備計画にもとづいておこなわれた。児童数の増加につれ、各小学校の教室が不足し後町小学校などの校舎の増改築が必要となったため、市では四年二月に教育調査会を設置し設備計画を以下四点のように策定した。①昭和四年度において一小学校(柳町小学校)を新築し、鍋屋田小学校を増築する、②三輪小学校の校地を拡張する。および芹田小学校便所を改築する、③昭和五年度において柳町小学校二期工事、ならびに後町小学校校舎三棟改築工事を、芹田・三輪小学校工事とともに実施する、④柳町および後町小学校に高等科男女児童を収容する。

 五月に市会で建築案が決議され認可申請をへて、八月二十六日に一九万二〇〇〇円の起債が認められた。五年には三輪小校地拡張・後町小校舎改築・芹田小便所改築に九万円、六年には城山小校地拡張・校舎改築に三万一四〇〇円、七年には吉田小校地拡張・校舎増築に二万二〇〇〇円と、多額の起債がつづけられた。

 大正十五年三月末時点で一一一万円をこえていた市債未償還額は、八年六月一日時点で一五七万円をこえてさらに肥大化した。『信毎』では「長野市借金物語」という記事を二回にわたって掲載した。それによると「市の負債は一五〇万円を突破し、一戸あたり一〇〇円・一人あたり二〇円の多額になる。そもそもは明治三十年の市役所新築の起債三六九六円が始まりで、その後の学校建築や上水道布設・道路拡張などによる起債で爆発的に増加し、昭和になってからも雪だるま式に増え続けている。このままでは毎年度元利合計二五万円の償還ではとてもおぼつかない」としている。また、「市債二〇〇万円時代もここ一・二年で到来するだろう」とも記している。市では、高利のものから低利のものへの借りかえもおこなってはいるが、あまりに金額が大きかった。

 埴科郡下の現市域六町村の九年度分公債費をみると、歳出臨時部の半分以上を占めている町村が四ヵ町村あり、松代町にいたっては九五パーセントにもなっている(表13)。さらに、松代町では税収の六二パーセントが公債費として消える状況になっていた。いっぽう、この時期の寺尾村や西条村は、公債に限ってみればほぼ健全な財政状況であったことが知れる。


表13 埴科郡下各町村の公債費(昭和9年度)

 市債のなかには、失業者救済事業としての道路拡張工事費の起債などやむをえないものもふくまれていた。十年度事業の若松町通りおよび二線路通りの舗装・緑町通りの拡張改修・ほか三路線の改修によって、延べ従業者数一万二八三三人・労賃一万一二〇〇円(日当八〇銭)の土木工事などがおこなわれたのは、その一例である。