失業者の増大と住民の生活苦

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昭和にはいり二年(一九二七)三月の東京渡辺銀行などの休業で金融恐慌が始まり日に日に不景気が押しよせ、米価の低落、霜害による桑園の被害、松代製糸の閉鎖等々が重なっていた。長野市職業紹介所の求職者数と求人者数の推移をみると、求人者数は昭和四年を除いて昭和七年まですべて求職者数を下回っており、昭和六年には求職者数一万六九五〇人にたいして、求人者数はわずか一三〇〇人であった(表14)。求職者の年齢区分を①一三歳、②一四歳、③一五歳、④一六~一七歳、⑤一八~一九歳、⑥二〇~二四歳、⑦二五~二九歳、⑧三〇~三九歳、⑨四〇~四九歳、⑩五〇歳以上として見ると、男では⑥が一番多く、ついで⑧、⑦となっている。また女では、④が一番多く、ついで⑤、⑥の順である。


表14 長野市職業紹介所の求職者数と求人者数の推移

 さらに、昭和七年を例にとり職業別にみると、求人者数では、男は土木建築業が五七一人(五三・九パーセント)と一番多く、ついで商業、工業および鉱業となっているのにたいして、求職者数は、工業および鉱業が三四・九パーセントで一位、ついで土木建築業、商業の順となっている。女では、求人数のトップは工業および鉱業で一六三五人、八〇・五パーセントにもなっている。第二位は戸内使用人で一六・四パーセント。いっぽう求職者数では工業および鉱業が八四一九人で九六・一パーセントと圧倒的である。

 昭和四年暮れには長野市職業紹介所に大勢の職を求める人が押しよせ、求職者数は例年の二倍になった。その反面、求人数はめっきり減り、多くの求職者からは、従来のように、よい働き口でなくてもよいから食わしてさえくれればという訴えが多かった。「職を求めるというよりパンを欲しいというありさま」で、「こんな状態で紹介所というより保護所といった方がいいくらいで、ここにかけこむ者のほどんどが無一文だから驚く」(『信毎』)。こうした傾向は、学校教育にも波紋を広げ、この年の中等学校の卒業生は工業八二人、商業八五人、中学二百余人で、とくに工業では一番早くから全国にむけて就職活動をおこなってきたが、採用の余地はなかった。そればかりか、大学や専門学校に進学していた知識階級とよばれる若者も就職できず、やむなく故郷の長野に帰ってくるものが増加した。また、「鮮人同盟労友会」の調査によると、長野市内に在住する「朝鮮人労働者」は昭和五年には五四一人で、このうちの半数二三七人が失業中であるとしている。同年九月には、長野市の失業者総数は一一八〇人で、十月には一八七九人となり失業率は一六・九パーセントと九月の一・六倍になっている。


図4 長野市職業紹介所の求職者数と就職者数の推移
(『長野市勢要覧』(昭和4~8年)、『県史近代』別巻(1)により作成)

 このような現象は市民生活にも大きな影響をあたえた。昭和二年長野商業会議所が調査した長野市の労働者一日あたりの賃金は、一番いいのが鍛冶屋、鋳物ブリキ屋の最高三円で、また、一番割りの悪いのは、機織(はたおり)工女の五〇銭から一円二〇銭であった。そのほか主な職業の賃金は、最高三円にれんが積み職人(最低二円五〇銭)・建具師(同二円四〇銭)・石工(同二円)などであり、ついで最高二円八〇銭の木挽き(同二円)・大工(同二円)・製材(同一円八〇銭)などとなっていた。


写真32 大正期から昭和初期に使用された50銭銀貨、10銭・5銭白銅貨、1銭銅貨

 川田村では戸数四五九戸のうち、お金を貸しているものは四九人、借りているものは一九四人にのぼり総額一万九一五〇円で、一人平均で一〇〇円にもなった。借金のために、こどもが中等教育を受ける機会をなくすばかりか、小学校においても、高等科へも出せない家が増えてきた。そうしたこどもたちは都会の商店の奉公人や他職人の弟子・子守・女中などとして出稼ぎさせられる例が多かった。

 昭和五年は、善光寺のご開帳であったが、それにあわせて、失業者が大勢長野市に集まってきた。同年三月十三日付『信毎』によると、東京で食いつめた肉体労働者が、ちょっと小粋な格好をして、宿屋の番頭志願と直接まかり出たり、コック志望の男が市内のカフェーを回って職業口をさがしもとめているもの等職業争奪戦が全市中に繰りひろげられた。そして働き口がなかった失業者たちは、市の職業紹介所に流れこみ、三月上旬だけでも一〇〇人を超え、昨年度一昨年度の一〇倍の加速度的増加であったが、それらの一〇分の一も職につけない状態であった。とくにあてにしていた院坊での働き口は、いっさい越中越後方面の信者のなかから手まわしよく雇いいれてしまっているので如来の力をたよって入りこんできた失業者などはまったく進路を失って悲惨な状況を呈していた。そればかりか、参拝客をあてこんでの物乞いをするものが善光寺境内付近に集まり、長野署での取りしまりであげられたもののなかには、四、五歳から七、八歳のこどもまでつれて、参拝客にすがっていたものもいた。拘留処分にしたものの、留置所には同類のものがうようよしていたという。

 また、生活苦を理由に徴兵検査で入営を希望するものが増えてきた。『信毎』の記事によると昭和五年の長野市の徴兵検査では、例年一、二人しかいない現役志願兵がこの年は五人を数え、今まで徴兵を忌避するために見える目を見えないといつわっていたのが、見えないものまで見えるとし、また、母親や女兄弟にすすめられて忌避していたのが、逆にすすめられて志願するという新しい社会現象まであらわれた。さらに十二月には海軍志願兵募集の受けつけを開始すると、一五歳の少年まで窓口を訪れたと報じている。


写真33 市町村を通して毎年海軍志願兵の募集がおこなわれるようになった

 六年六月には、長野市で例年おこなわれていた祇園祭を不景気のために中止した。祭りの費用は各町とも一五〇〇円くらいかかるため、負担が大きすぎるというのが中止の理由であった。さらに花街や料理屋にも不況の波が押しよせ、一ヵ月一五円の税金も払えないところが増えてきて、料理屋でも閉店に追いこまれるところが目だってきた。