おもな道路と橋梁の改修

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昭和五年(一九三〇)以来の未曾有の農村経済恐慌にもとづく、全面的な地方経済界の恐慌を救済するため、県は失業対策事業の主力を土木事業に集中することとなった。

 長野市ではときあたかも都市計画が認定され、実行に移されるときでもあった。そのため、とくに道路や橋梁の改修が急ピッチで進行することとなった。

 改修のおもなもののうち国道一〇号(現一一七号)の改良工事は昭和六年度に起工された。この線は高崎から碓氷峠を越え、千曲川にそって北上し、長野市内から飯山そして新潟、さらには秋田まで通じる国道であるが、とくに長野県内の状況は旧北国街道にそうものであった。

 長野市内の改良は昭和六年度から都市計画線に一致させて、幅員二二メートル、歩道各三・七メートル、車道一四・六メートルの道路として施工された。旧市内の鉄道線路以北から県庁までは内務省直轄のもとに施工し、以南の丹波島橋までは県において施工された。道路は一五センチメートルの厚さの砂利敷で、車道と歩道の境には配水管も埋設された。歩道にはコンクリート方塊を敷きつめたが、厳寒期の施工であったため、暖房装置を施した屋内でコンクリートを固めたり、凍害予防のために六〇センチメートルあまり掘り下げて砂利を敷き、さらに砂を敷きつめるなどの工夫がこらされた。跨線橋の美篶(みすず)橋建設は鉄道省に委託された。跨線橋取りつけ道路は内務省直轄で施工されたが、施工にあたっては敷地と土量を節約するため、コンクリート擁壁を築造して建設された。擁壁の裏側には機関車から排出したアスガラを埋めあてて背圧を減じる工夫をし、盛り土は裾花川の砂利をあてて仕上げた。こうして総工費五五万八三九〇円、うち長野市からは一一万二三九八円が寄付され十年に完成した。また、南県町から新田町にいたる四〇〇メートルほどは、昭和九年二月に着工し、二七万六〇〇〇円をかけて翌十年六月二十四日に幅員二五メートルの道路を完成して国道一〇号線に接続した。こうしていわゆる昭和通りが姿をあらわした。この昭和通り建設による失業救済人員は、延べ一三万七〇〇〇人あまりにおよんだ。


写真34 道路改良工事に伴い、鉄道上に交差する跨線橋がつくられた (小林写真館所蔵)

 国道一〇号線丹波島橋以南は昭和九年度に施工された。有効幅七・五メートルの砂利道で全線盛り土をした。盛り土は犀川の砂利を敷いたが、右岸の川原には砂利が堆積し自由に自動車が入れたので、長野市や篠ノ井地方の自動車もち人夫約二〇人を登録して運搬した。工事は失業対策もかねていたこともあり、建設機械は導入されず、わずかに砂利運搬の自動車のみであった。

 丹波島橋は国庫補助六〇パーセント、県費補助三〇パーセント、地元負担一〇パーセントで昭和六年十一月から翌七年十二月にわたり、農村振興土木事業の一環として在来の木橋にかわる延長五二七メートル、幅員一二・二メートル(うち車道七・三メートル、両側に二・四五メートルの歩道)の鉄筋コンクリートの橋を架設し、市街地への玄関とした。当時歩道つきの橋はきわめてめずらしいものであった。

 総工費は実に八八万円を要し、関係市町村はそのうちの一部負担としてつぎのように分担寄付をおこなった。長野市七万五三七八円、青木島村三五八八円、中津村七三一円、小島田村一五八六円、御厨村一一五一円、真島村一九八九円、川中島村八二一円、稲里村二七六三円。竣工式は一万人を超す見学者を集め、昭和七年十二月十六日におこなわれた。ここに丹波島橋はゲルバート式キャンティー・リバートラスト(両岸から梁(はり)を鋼材で組みあわせる構造)の鉄橋として生まれかわり、優雅な姿をあらわしたのである。


写真35 完成した新丹波島橋 右側に旧木橋が残っている

 犀川線道路(現一九号)の開削がおこなわれたのもこの時期である。これは中南信と北信を結ぶ道路で、自動車が通行可能な道路は昭和初期まで和田峠越えの道路のみであり、なんとか幹線道路を建設したいという願いは、県民ならず行政上の懸案ともなっていた。とくに長野市西部笹平から犀川上流の明科町までは渓谷部で、車の通れる道はまったくといっていいほどなく、犀川通船に頼るのみとなっていた。

 大正九年(一九二〇)には沿線町村の強い要望により犀川線道路期成同盟会(会長、尾沢栄重郎水内村村長)が結成され、活発な建設運動が展開された。本格的に建設がきまり設計測量が始まったのは昭和二年のことであるが、長野・明科間の複雑な地形から数多くの橋梁を建設し、犀川を右に左に縫うように渡っていくことになるため、各地で道路争奪の運動が繰りひろげられることが予想された。そこで県はまず橋を先にかけることとし、橋梁建設から着手した。ときあたかも失業救済事業をおこさなければならないときであったため、沿線で一斉に工事が始まった。

 長野市域における橋梁は、新橋(両郡橋)、明治橋、大安寺橋、川中島橋、水篠(みすず)橋であったが、新橋が昭和六年に、大安寺橋が翌七年に、また明治橋が九年に、最後の水篠橋が十一年に完成竣工し、懸案の南北をつなぐ動脈である犀川線全線の開通をみることとなった。なお、松代線川中島橋の架けかえは十年であった。


写真36 鉄橋に建てかえられた両郡橋
(野本日出郎所蔵)

 長野市展望道路は昭和八年の失業対策の応急事業として改修した、都市計画による遊覧道路である。昭和七年十二月に起工し、幅員八メートル、延長三三一〇メートルの道路が翌昭和八年五月二十七日に竣工した。総工費は一〇万八四六五円、うち国庫補助二万七三七一円、県費補助一万三四八円で、この建設による失業救済人員は、のべ六万四七九三人におよんだ。

 その他、昭和初期、とくに失業対策をかねて建設された道路は、長野一ノ鳥居線(救済失業者四万六三五三人)や県道二ノ倉長野線改修工事など表15のとおりである。


表15 昭和初期のおもな道路改修