長野駅舎の改築

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鉄道交通の発達によって、長野駅利用客は大幅に増大していった。いっぽう、明治三十五年(一九〇二)に建てられた二代目駅舎は、長野市の玄関口として利用されてきたが、老朽化がすすみ利用客に不便をきたすようになった。その模様を当時の新聞は「白蟻の巣窟と化して、駆除しても追いつかず繁殖するばかりである。また昨今のように一日二、三千人もの団体客が来たり、雨の降る日などは手狭で雨宿りをする場所さえ無い状態で、悪いことには待合室の地盤が駅前広場より低く、雨水が流れこむ状態である」と報じている。このような老朽化に加えて、昭和三年(一九二八)六月、長野電鉄線が権堂から長野駅まで延長し開業され、さらに善白鉄道の建設促進がはかられるにいたって、長野駅の改築および駅前広場の拡張の動きがしだいに高まっていった。

 当時の丸山市長は名古屋鉄道局に陳情申しいれをし、また、名古屋鉄道局も改築の意向をもっており、昭和十一年三月に始まる善光寺御開帳に間にあわせるよう、昭和十年五月十日に着工された。このときの長野駅の設計は名古屋鉄道局の城俊一(たちしゅんいち)によるもので仏閣型の駅舎であった。

 大正後期から昭和十年代にかけて、わが国は国力の充実とともに、世界のなかの日本としての自信から、日本固有の文化の再認識や、日本の伝統が重視される風潮があった。また、画一的な駅舎は旅行の印象を薄弱にさせるため、郷土色を演出するべきであるとの考えから、古都や著名な神社仏閣のある都市に建築する駅舎には、こぞって和風式や神社仏閣を模し、それぞれに郷土色豊かな駅舎が誕生していった。高尾駅舎・大社駅舎・奈良駅舎等はその例である。

 設計者の城俊一は当時二六歳で、初めて任される駅舎の設計であったという。鉄道省からは神社仏閣などを参考にした和風の建物を建てることをいいわたされたため、京都奈良の神社仏閣を丹念に見て学んだというが、善光寺については、設計するにさいし、とらわれることをおそれ、まったく見学はしなかったし、一部を模して設計することもなかったという。

 駅舎建設は富山市の請負師佐藤助九郎が一二万五〇〇〇円で落札し、着工から二九〇日で竣工する契約で、ただちに着工、昭和十年五月に建設が始まった。駅の地盤は裾花川の氾濫原で二メートルも掘れば石の多い河原の状態でしまっており、基礎を固めるのに施工しやすかった。建物は鉄筋コンクリート造り二階建て延べ面積一三二八平方メートルで高さ二〇メートルにおよぶ大屋根は、美しい曲線を出すために木造で銅板葺きとした。御開帳に間にあわせるために、建設は急ピッチですすめられたが、とくに寒い冬場は凍みあがりを防ぐため、建物全体をむしろでおおい、内部で炭火を燃やした。また天井の足場からは多くの石油缶をぶら下げてそこに炭火を入れて保温につとめた。しかし、いっぽうではそれにより何人も一酸化炭素中毒者を出したという。

 完成したとき、設計者の城俊一は「まわりの建物にたいしてあまりにも大きく、恐ろしいものを造ってしまった、何といわれるだろうか」と思ったというが、当時の『信毎』は「仏都を象徴した豪華なローカルカラーと明朗なモダン性を濃く彩って仏閣型長野駅が近代建築の粋を凝らして完成した。古典とメカニズムの美しい構成美が早春の空に栄光威容を発し、仏都長野市の玄関口にふさわしい色彩を多分に滲(にじ)みだしている」と絶賛している。竣工式は昭和十一年三月十五日。大村県知事(代理 土肥土木部長)、須田名古屋鉄道局長、藤井長野市長ら参列者七百余人を数え、盛大におこなわれた。当日は快晴で朝から祝いの花火が間断なく打ちあげられ、人の波にうめつくされた。


写真37 昭和11年仏閣型に改築された長野駅舎
(『昭和の信州』より)

 駅前広場拡張については、駅舎改築の話題とともに語られてきた内容であったが、敷地買収に多額な費用を要し、とりわけ駅前の五明館食堂や山屋旅館、清水屋支店、柳屋旅館などの移転が絶対必要条件であった。旅館の移転はすなわち業務の撤退を意味するため、長野市としては頭の痛い問題であり、遅々として計画が進展しなかった。しかし長野駅改修案が進捗するにあたり、鉄道側からの要請もあり、至急施工の必要に迫られていた長野市は、昭和九年秋、予算一〇万円をもって都市計画事業として実施することに決した。

 予算の一〇万円中一万五〇〇〇円は地元負担、三万六五五〇円は県費補助、残り四万八四五〇円を市費とし、三八〇坪の買収に着手した。しかし、交渉委員によって示された市の買収予定価格と、地主が示す値段に大きな隔たりがあり、地主の要望価格にとうてい応じることができない場所もあり、買収交渉は難航した。このような状況に市会議員のなかには、「地主側があくまで主張を緩めない場合は交渉を打ちきり、この機会を利用して旅客専用駅を鶴賀遊廓北裏付近に移転新築したらどうか。市の北東部発展を刺激する見地からも都合がよい。」という案も台頭しはじめた。これにたいして関係数ヵ町の区長が移転見合わせの陳情となり、地主説得の役割を買って出たが混乱するいっぽうであったという。市では土地収用法の適用をきめたが、補償を追加増額する調停案が示されて昭和十年九月決着した。これにより駅前広場の整備は進捗することとなった。すなわち広場の中心に小公園を設置し、善光寺に設置してある如是姫像をもってくることに決し、また末広町通り一三〇メートルを一二間(二八メートル)に拡張することに決した。これらは駅舎の竣工とともに竣工し、長野市の玄関としての面目を一新した。


写真38 仏閣型長野駅舎から見た駅前の旅館など (金久保一所蔵)