経済更生運動の展開

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経済恐慌に見舞われた県内農家は、一戸あたり約一〇〇〇円の負債を抱えており、こうした経済状況を立てなおすために、県ではまず昭和七年(一九三二)一月、県農村経済改善調査会規程をつくり、つづいて四月には県農村経済改善委員会規程をもうけて、農村経済改善上とるべき方策を協議した。その結果、郡市町村経済改善委員会を設置すること、農村経済改善計画の全県的基準として、負債整理・金融に関すること、生産・生産物および消費統制に関することが重視されることとなった。

 昭和八年二月末現在、郡市別の経済改善委員会設置状況は、上水内郡五八・六パーセント、上高井郡七三・三パーセント、埴科郡八二・四パーセント、更級郡六三・〇パーセントで、埴科郡がもっとも高く、逆に上水内郡は遅れていた。現長野市域の各町村の同委員会設置状況を見ると、長野市はもとより、上水内郡五ヵ村(大豆島、朝陽、若槻、浅川、芋井)、上高井郡二ヵ村(保科、川田)、埴科郡六ヵ町村(松代、清野、西条、東条、豊栄、寺尾)、更級郡一一ヵ町村(篠ノ井、塩崎、川柳、更府、共和、御厨、川中島、稲里、真島、東福寺、西寺尾)で、更級郡内の村々が多い。そこでは、各種産業団体の連絡統制がすすみ、村、農会、産業組合の連携のもとに、農家組合、農家小組合または農事実行組合が実行組織として機能した。農事実行組合は昭和七年から法人として産業組合の下部組織に位置づけられている。


写真39 各地の農事小組合の報告資料
(『長野県の農村工業』より)

 県経済部出張所は昭和十年八月、各郡市に開設されて以来、区域内各種勧業団体の横の連絡をはかるとともに、市町村の経済更生運動に適切な指導をおこなってきた。翌十一年三月の第三回経済部出張所長会議において、所管別更生計画実施状況の一覧表が示されたが、そこから長野市ほか四郡の実施項目別町村数をみたのが表16である。全体として生産改善増殖(食糧自給、飼料自給、自給肥料増産、畜産増殖など)、販売統制(繭、米麦類、鶏卵、豚など)、生活改善(禁酒、冠婚葬祭改善、服装改善統一など)が目だっている。郡別町村数からすると、生産改善は埴科郡、販売統制は上高井郡、生活改善では長野市・上水内郡の町村がそれぞれ高い成果をおさめている。


表16 郡市別経済更生計画実行項目

 また、さきの第三回会議で、指定をうけた経済更生基準村(二〇ヵ村)が明らかになったが、これは県下ほとんどの市町村において樹立実行されている更生運動の成果をいっそう徹底するために、優先的、集中的に指導助成を加えるためのものであった。そして、そのうちの一九ヵ村は十一年と十二年に、農林省による農山漁村経済更生特別助成村として採択され、そのなかに現長野市域の埴科郡東条村と上水内郡芋井村がふくまれていた。

 昭和四年の恐慌のもたらした農家経営の危機に直面していたとき、芋井村農会は経営改善と増産を目標に、五ヵ年更新計画をたてたが、「経済界動揺甚だしいため、増産、消費節約のみにて其の目的を達成」することはできなかった。そこで同村経済改善委員会によって基本調査と計画更新をおこない、一四項目にわたる大計画を樹立したが、昭和十年度、ふたたび更新の必要に迫られた。その原因は九年度の冷害・霜害によって計画がまったく無力なものと化してしまったからである。ここで三たび、村長、農会長、産業組合長、小学校長らが、村民集会・講演会への動員、傾斜耕地の集約、多角的農業など、新しい農村作りを目ざして、つぎのような更生計画大綱を策定した。①村農会は技手二人を増員し、産地は拡充五ヵ年計画を樹立、②負債償還計画の実行、③飯綱原の村有地一七四町歩開墾、④山林経営改善、⑤生活改善などであった。

 村民の収入は、更生計画樹立年である七年から十年にかけて増加していることが明らかである(表17)。しかし、収入増は傾斜地に植えられたりんご、梨(なし)、柿等の果樹収入の増加がとくにいちじるしいほかは、普通作物、養蚕は増産よりも価格変動による増収であり、ことに副業、労働出稼収入としての労賃の増加が成果の背景にある。消費についてみれば、十年度にかけて増加をしめしているが、内容を見れば、農業経営のための諸費用が増加したのでも、文化生活が高度化して家計費が増したのでもなく、反対にきびしい切りつめのなかで嗜好費はいちじるしい減少をしめしている。これにたいして、増加したのは負債(主として個人貸借)と開拓地購入の雑支出を主とする家事支出である。生産と消費の差し引きは二万九〇〇〇円の赤字から一万三〇〇〇円の赤字に減少している。


表17 芋井村更生実績

 このような芋井村の経済更生の進捗には以下のような経済的基盤があった。①芋井村の階層分解が遅れており、自作三〇九戸、自小作二九八戸、小作九一戸というように、村民の貧富の差がきわだっていなかった、②負債が比較的少なく、一戸あたり平均五七九円であった、③一戸あたり耕地所有高が田二反五畝、畑八反二畝であったが、そのほか、長野市善光寺下、権堂付近などの田畑およそ三〇町歩が芋井村農民によって耕作されていた。

 経済更生とともに重視されたのは、精神更生であった。芋井村の更生運動の中堅として活躍しているある中農は、金だらいも不要、ぜいたくを排除しなければならないといって、こわれた鍋(なべ)を洗顔に使っていたという。こうした精神更生の自生的な盛りあがりは、同村と並んで指定された東条村においてもみられた。七年度、村当局がもっとも急を要する重要事項として経済更生運動の計画実行を急いでいたとき、従来の生活惰性に習慣づけられて、村民は更生運動にまったく無関心であった。また、計画的な農業開発などは予期できないものとして話題にのぼる程度にすぎなかった。そのなかにあって四人の有志青年が「一一(いちいち)会」と称して毎月一、十一、二十一日に研究会を開き、産業組合、農会、学校、村当局と連絡をとりながら研究をつづけていた。この意気に志を同じくするものが入会して、七年十月に一五人に達したところで青年更生部と改称し、十年にはまったく中枢的存在となった。とくに、部員は組合理事、農会役員、村議らをはじめとする村の中堅者が加わり、精神的結束によって全村民の教化に重要な役割りを果たした。

 産業転換施策の成功はひとえに農村指導者の双肩にかかっているという立場から、県農会では昭和六年度以来、五ヵ年計画をもって農村経済更生運動で活躍すべき人材の養成につとめてきた。十一年後半には、すでに県内受講者数も四四〇〇人を数え、各町村において自家経営の改善に、農家組合、部落、村の更生運動の中堅人物として活躍していた。こうした青年の全県的統制強化をはかり、更生運動の最前線でかれらの活躍すべき具体的方法いかんを究明する目的で、県農会は十一年十月、長野市産業会館で長野県大地連盟の設立を決議した。その決議大会では長野市栗田倉石治見、安茂里村大瀬一雄、長沼村深瀬武助、稲里村吉沢通が「実験談」を解説している。その半年後に大地連盟が創設された。