負債整理組合と自作農創設

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養蚕を主業とした農家経済は連年にわたる繭価の暴落で破綻(はたん)し、負債は急速に膨張した。昭和五年(一九三〇)一月現在、長野県農会「農村負債調査」によれば、銀行、信用組合、耕地整理組合の借入、無尽、金銭貸付業者、一般個人を合わせた負債総額を農家数で除した一戸あたり負債額は、更級郡一〇八〇円、埴科郡七一四円、上高井郡九七九円、上水内郡五五九円、長野市一五五一円、県平均八六八円であった。

 埴科郡清野村経済更生計画(昭和十年二月)に関する村負債整理計画によれば、村内の貸手別負債額は銀行五万円、信用組合三万五〇〇〇円、無尽一二万円、金銭貸付業者二万円、一般個人三万円、合計二五万五〇〇〇円であった。その整理計画ではつぎの二点が強調された。①その実行方法として部落単位もしくは五人組以上の団体を設け、毎月または年二期(春秋蚕上り)に収入の五分から一割に相当する額の減債貯金をおこなう。ちなみにその貯金は団体貯金として信用組合に貯金する、②実行指導については経済改善委員が各部落五人組に最寄り指導する。


写真40 昭和10年ころの田植え風景
(『郷土学習帳』より)

 埴科郡東条村は県から経済更生基準村に選定された結果、奮起して徹底的な更生の検討をおこない、負債整理組合を設立して、同村の癌(がん)である負債の償還をとげようとした。同村中川区では三〇世帯の負債総額が四万一五三〇円になっていた。そのうち負債総額三万八三〇〇円を抱えた一八人(自作四、自小作一三、小作一)をふくむ二四人(世帯)から「無限責任中川負債整理組合設立認可申請書」が提出された。

 これは同村経済更生計画にのっとり、一致協力して各人の更生を期そうとするもので、村においても負債整理資金一万円の融資と各般の援助を見こんでいた。計画書によれば、組合の負債償還を目的とする積立金は資金借入額の一パーセント以上を毎年積みたて、その半額は組合員均等割とし、他の半分は資金貸付額に応じて拠出させるというものであった。さらに、村営土木工事に出役した労賃、生産物の拠出、余暇の活用・冗費の節約等によって畑一反を共同耕作しその収益の全部を積みたてるとした。この計画は同村経済更生計画の地区別の計画と同一のもので、組合の活動により、同村経済更生計画を円滑におこない促進するものと位置づけられており、同組合は十一年五月に県から認可になった。

 長野市域では、これに先だつ昭和九年三月に、上水内郡芋井村入山区の保証責任報徳負債整理組合の設立が認可されている。同区内は五五世帯、組合員四九人、うち合計三万五五〇円の負債整理を要する組合員は二九人であった。また、未加入者六人の内訳は、世帯主不在のため意思表示できないもの二人、農村負債整理組合法の趣旨を理解しないもの四人となっている。

 さきの清野村経済更生計画のなかの第一項目、耕地利用の改善計画によれば、同村田三四町歩のうち、七町七反は他町村民の所有となっていたが、将来、同村民の所有に帰すこと、普通畑九三町歩のうち、他町村民の所有となっているもの三九町歩を同村の所有に帰すこと、桑園反別の二割を減らし、普通畑は農家一戸あたり四反六畝を目標としていた。その実行方法は各農家組合単位で産業組合に団体貯金をし、資金の蓄積をはかりつつ、産業組合において自作農創設資金の貸しだしをおこない、一ヵ年に四反歩の土地の買いいれをおこなう、というものであった。

 この自作農創設維持事業は大正十五年(一九二六)に創設された政策にもとづき、小作争議の緩和をはかり、農業経営の安定と堅実な農村発展をうながすためのものであった。実施にあたってはなるべく安価な土地をきわめて低利(年利三・五パーセント)で一年据えおき、二四年の年賦償還の方法によって自作地の購入または維持をおこなうというものであった。また、県内務部『自作農創設維持便覧』(九年三月)によれば、償還金の「過重負担」を負っている自作地取得者にたいしては、安易に戸数割を増額することのないよう配慮すべき旨が記載されている。

 九年五月現在、現長野市域に属する自作農創設維持資金の郡別貸付額(昭和元~八年度)は、更級郡内(信田村など一〇ヵ村)八万六七〇〇円、埴科郡内(東条村、豊栄村)四六〇〇円、上高井郡内(保科村)三万四六〇〇円、上水内郡内(芋井村)三一〇〇円、長野市(高田)九九〇円であった。とりわけ中津信用購買組合(中津村)と川中島村の貸付残高はそれぞれ一万八〇〇〇円でもっとも多かった。豊栄村の貸付額三六〇〇円は五年の一五五〇円、三五〇円(二人)と六年の一一五〇円、五五〇円(二人)の合計である。

 十二年に公布された長野県自作農創設維持奨励規程にもとづいて、豊栄村では十四年度に二九〇〇円の自作農創設資金が申請された。その申請書によれば、農家戸口の増加とともに耕地もせばまり、かつ昭和二年の霜害以来の不況は経営の根底をくつがえし、生活難は耕地を産業組合、銀行会社、または他町村住民に流出させた。同村の田畑所有者を調べると、産業組合が四町六反、八十二銀行八反、北信商事一町三反、他町村民の所有は二四町三反と大きかった。そのうち、四人の村民が、八十二銀行所有の畑七反六畝を二九〇〇円で買いとることになった。このときの反あたり売買価格は三八三円、その反あたり小作料は二八円二五銭であった。

 これにたいして、創設自作農が毎年返済する金額は元金の二五年均等返済で年一五円三二銭、年利三・五パーセント以下(十三年度より三・二パーセント)であることから、元金にたいする利息は当初一二円二六銭、合計二七円五八銭となり、初年度から支払小作料以下となる。借入金残高が年々減少するにつれ利子も軽減されることを考慮すれば(実際の計算方法は元利均等返済)、農家が小作地を購入することは大いに意味のあることであった。村経済更生計画に組みこまれた自作農創設事業の役割もここにあり、たんなる小作争議対策、地主・銀行所有地の売りにげ助長策・地主優遇策ではなく、どこにでもみられる一般的傾向であった。