現長野市域における昭和初期の伝染病患者とその死亡者の実態は大正期とくらべて大きな変化はなかった。依然として腸チフス・パラチフス・ジフテリアが多く、赤痢がそれにつづいていた(表18)。
大正期に大きな社会問題になった肺結核による死亡者は、県全体からみても大正四年(一九一五)の二三一六人を最高に漸減はしているものの、昭和九年(一九三四)にいたっても、一七一四人(『県史近代』⑧(2))をかぞえていた。そのなかには結核におかされて故郷の農山村に帰り死亡した製糸工女が数多くふくまれていた。
また、トラホームも治療効果はあがってはきたが、昭和十年の長野市の小学校児童一万一九五六人中二七〇人が罹病している(『昭和初十年の長野市』)という状況であった。その他、死亡者総数にたいする乳幼児の死亡率は、長野市の場合二四パーセントから三四パーセントとかなり高いところにあった。
これにたいして、当時の長野市内の医療施設としては、開業医院が四四ヵ所、そのほかに長野刑務所診療所・長野鉄道治療院・長野県健康相談所・長野県健康保険相談所・簡易保険健康相談所・逓信診療所・長野市伝染病院・長野脳病院・鐘淵工場医局・恩賜財団済生会長野診療所・日本赤十字社長野支部病院などがあった。
医師会員の専門科目は内科三〇人・生殖器科(花柳病)一〇人・外科九人・小児科九人・眼科六人・全科七人・産婦人科七人・耳鼻咽喉科六人・精神病科五人であった。長野市医師会は市民医療のいっそうの向上を願って、昭和二年四月、中産階級およびそれ以下の低所得者を対象に、実費または無料で診療するための施設「実費診療所」を開設した。これは医師会という私設団体がつくった特色ある施設で、その設立と運営の実態はおよそつぎのようであった。
設置場所は、鍋屋田小学校運動場に隣接する長野市大字鶴賀鍋屋田一三八三番地で、建設費は約一〇〇〇平方メートルの土地代金をふくめて約四万円であった。それらのすべては借入金でまかない、会員の負担による年賦償還とした。長野市はこれにたいして、事業の補助金として毎年二〇〇〇円を支出した。建物の規模は、木造二階建てに平屋の宿直室を併設するものであった。
四月三日の開所式にあたって、長野県知事高橋守雄は実費診療所設立の本旨にふれながら祝辞として大要「社会組織がいよいよ複雑になり、社会政策上から病弱者を救療する機関の設置は緊急課題であるが、経費等の問題でほとんどの地域で実現できなかったのは大変残念なことであった。それにもかかわらず長野市医師会は、率先して万難を排し、多額の経費を投じて理想的な実費診療所を設置したことは喜びに堪えないことである」と述べている。
長野市医師会の実費診療所の開設は、関東大震災につづく世界恐慌の発生という、日本経済にとってもっともきびしいときと重なり、その開設と経営は苦難の連続であった。しかも、開設直後五月の大霜害で近隣養蚕農家の八〇パーセントが被害を受けるという状況も加わっていた。経済不況は医業者の収入減少をきたし、実費診療所に二人の専任医師を置くことができず、全員の交替無償奉仕による診療活動に頼らざるをえない状態であった。
しかし、これらの困難を克服して、長野医師会の実費診療活動は日中戦争の勃発後までつづけられた。そのあいだ、実費診療所が貧困者の救療に果たした役割は大きかった。なお、実費診療所患者数の実態は表19のようであった。
長野市域の近郊農村地域においては、医療と伝染病院の設置や移転などに、つぎのような諸問題をかかえていた。
大正期の後半から昭和十年ごろにかけて、長野市近郊農村も慢性的な不況に苦しめられ、生活は困窮し健康破壊は著しく進行した。病気になっても医師に診てもらえない農民も多く、また診てもらっても、医療費の支払いにこと欠く農家が増大した。当時長野周辺の農村では、慣習として医療費は盆・暮れの二回の支払いとなっていた。この支払いも円滑ではなく、医師も農村で医業をつづけていくことが困難になり、いきおい無医村が増加した。そこで昭和七年に恩賜救療事業として、無医村へ出張診療所の開設と巡回診療班の組織の編成がなされた。長野市域の場合、この事業がどのように具体化したかは不明であるが、無医村であった上水内郡浅川村は出張診療所の嘱託医師に、当村と密接なつながりのあった長野市吉田町の花岡四郎が担当したという。嘱託医師は原則としてその都市の医師会員が担当することになっていたが、これは上水内郡医師会長の要請によるものであった。嘱託された医師は、一週間に一回(一日)出張して救療に従事した。この救療は無料で、嘱託医師には恩賜財団法人から月額五〇円の手当てが支払われていた。
また昭和六年には、長野市の医療施設として重要な役割を果たしていた長野市伝染病院の移転改築問題がおこった。ことのおこりは城山の堀切北(現市立動物園の地)にあった火葬場と伝染病院をほかへ移動してくれという三輪地区からの要望にもとづくものであった。そして火葬場の移転が太田地区(現東和田運動公園)にきまったのを機に、老朽化した伝染病院移転の議が市議会におきた。市議会の調査委員五人の調査結果により日赤委託の方向が決定された。そのさい、長野医師会は伝染病院移転について、大要「病毒の散漫を防止し、その撲滅をはかり、不幸な罹病者に恵みを与える施設が必要である。そこで完全な伝染病院と消毒所を設置し、十種類の伝染病患者のすべてを収容できる設備が必要である。また環境の善し悪しは治療上大きな影響があるので、伝染病院の位置は都市の中心部を避けて、高燥閑静で交通の便利な場所を選定されたい。」という建議書を市長丸山弁三郎に提出した。
長野市域でその他の伝染病院としては、大正九年に設立された朝陽村・安茂里村・大豆島村・柳原村・長沼村・古里村・若槻村の各村連合の長水伝染病院が吉田町中越地籍につくられていた。この病舎は、昭和十五年長野市ほか一〇ヵ村により「長水伝染病院組合」が設立され上水内郡古里村富竹地籍に新病棟がつくられるまで使用されていた。篠ノ井町川中島町伝染予防組合は明治四十三年(一九一〇)に設立され、昭和三十四年(一九五九)三月廃止された。そのあいだ、加入町村は町村の統合により逐次減少したが、その利用者地域には変更がなかった。病院の場所は篠ノ井布施高田南条にあって、敷地三四五八平方メートルで建坪は七九五平方メートルであった。昭和八年の段階で加入町村は、篠ノ井・信里・共和・中津・御厨・東福寺・西寺尾・川柳であった。
昭和六年九月満州事変が勃発する。松本五十連隊は上海・満州へ出動し、長野市域からも出征軍人が増えていった。長野医師会は七年三月六日の総会で「本会会員は出征軍人の家族遺族に対し優待のため無料診察を行うこと。無料診察を受けんとする者は長野市長の出征軍人の家族遺族たる証明書を持参すること。本決議は即日実行すること」を決議し、ただちに実施した。
昭和七年、救護法が実施され、長野市は市医師会と協定書を結んで、救護法適用の医療の範囲と医療費額を取りきめた。救護者の資格は六五歳以上の老衰者、一三歳以下の幼者、妊産婦、心身障害者とした。同年には防空演習が始まり、長野市では官民あげての防空演習を五月二十二日に実施した。この演習には市医師会の協力のもとに医者・看護婦・女子青年団員を構成員とする救急班が組織された。救急班は市の八班の消防区域の拠点(加茂・城山・鍋屋田・山王・芹田・古牧・三輪・吉田の各小学校)に配置され、実際訓練をおこない有事にそなえた。