昭和六年(一九三一)から十年にかけての長野警察署管内の出火度数は、年平均五〇回程度であった。
昭和六年に火災件数と損害額が多かったのは、放火魔が出現して同年八月十三日の中御所保線区の放火を手始めに、市内の要所に数回にわたって火災を発生させたためであった。このときは、犯人逮捕のために長野市消防組が応援出動し、同年八月二十三日にその逮捕をみた。そこで、警察署・消防組・警備団の三者が合同主催で、八月二十六日に市内権堂秋葉神社において、鎮火祭を盛大に挙行した。それ以来この鎮火祭は、長野市の防火のための年中行事となった。
長野市消防組は、大正十二年(一九二三)七月一日に吉田・古牧・三輪の一町三ヵ村が市に編入合併されて、組数一一・組員八六五人となり、その後昭和二年五月十六日さらに改組をはかり、一組八部制に統一した。それと同時に消防自動車を購入、「常備消防」を設置して、定員を三九一人に改めた。やがて消火手段として、消防器械器具も充実し、自動ポンプ四台・水管自動車一台・腕用喞筒一六台・手引水管車一三台・公設水道消火栓三九六ヵ所の設備をもつことになった。
昭和初期の消防組改組については、昭和八年十二月に公布された長野県令第六九号の「私設消防組組織等に関する件」による改革が注目される。これによって公設消防組が設置されている区域においては、私設消防組は廃止されて、すべて村単位の消防組が組織された。
私設消防組の廃止によって組数は四三から三一に減少し、部数は逆に四六から一二七に増加、人員も二倍近くふえている。ここで特筆すべきことは、消防器具の機械化である。大正期に登場した蒸気ポンプやガソリンポンプが増加して、昭和九年にはガソリンポンプが六台となり、主力のポンプ台数は九七から一九九にふえている。その他の消火関連の諸器具も増加して、消火態勢が飛躍的に充実した。なお、あらたに救急車もつかわれるようになった。
この時期には総合的な防災訓練として防空演習がおこなわれた。これは昭和七年、第一部長である河原信三著書『空中爆撃大震火災に長野市民はどうするか』が市民に衝撃をあたえたのが契機となって、大規模な防空演習が実施された。これは同年五月二十二日、長野市消防組が主体となって市・警察署・連合軍人分会・警備団・青年会・女子青年団、その他各種団体が連合しての大規模な演習であった。
昭和八年三月二十八日には長野市営グラウンドにおいて、巡検官の長野警察部長山本義章を迎えて長水分会大巡検式がおこなわれた。受検消防組は長野市消防組ほか二八組で参加人員は五千有余人であった。式後は中央通りで大分列式をおこない志気を鼓舞した。
千曲川治水のための築堤工事は、昭和七年に信濃川水系砂防工事に変わり、その工事の進行中に豪雨による水害が発生した。それは、昭和四年九月・七年七月・八年八月・十二年八月の四回であった。昭和四年九月の豪雨のとき、長野市域で被害の大きかったのは朝陽村・柳原村・長沼村・古里村であった。耕地の浸水一〇〇ヘクタール、床上床下浸水七三戸、耕地流失一五、損害約一万七〇〇〇円であった(『信毎』)。
また、七年七月の豪雨によって浅川の堤防が三六メートル決壊したために数十ヘクタールの田畑が浸水した。そのとき犀川が増水して善光寺平農業用水組合の取入口工事の沈床が流出して、損害額は約七〇〇〇円にのぼった。
八年八月十三日から十四日にかけての大豪雨では裾花川等が氾濫して長野市では床上浸水五〇〇戸、床下浸水二〇〇〇戸、流失二戸、相生橋流失、落合橋の一部流失などの大被害であった。