日本農民組合支部と農民自治会の活動

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大正十五年(一九二六)九月更級郡八幡村で、つづいて同郡西寺尾村で小作人組合連合の組織づくりの準備がすすみ、昭和二年(一九二七)一月埴科郡屋代町での準備会を経て、同年四月二十四日屋代町の屋代劇場を会場に、県小作人組合連合会が創設された。これは東北信地方の小作争議の盛りあがりと政治研究会の結成、労働農民党の結成などの影響によったが、日本農民組合(以下日農)の本部から代表が出席するとともに、県下の加盟一二組合・組合員一八〇〇人を代表して一五〇人の代議員が参加した。


写真45 小作証 (志津享所蔵)

 会場には屋代署・篠ノ井署の制服・私服の警官がものものしく監督し、代議員の発言を制止するなどの状況下に、役員は塩入豊治常務理事長(埴科・南条村小作組合)、専任常務理事小林杜人(同・雨宮県村)、常務理事北村万弥(上高井・須坂町)、会計若林忠一(埴科・屋代町)など東北信が中心であった。組合員も更級・埴科・上高井の各郡が主体である。可決議案は、①日本農民組合加盟 ②合理的小作法の制定要求 ③地主の土地返還要求反対 ④階級的消費組合設立 ⑤治安維持法撤廃など八項目で、さらに綱領五項目を決定した。日農県連合会本部は雨宮県村の小林杜人方に置かれた。

 日農県連合会の発足した直後の五月十二日に、全県下に大霜害があって桑葉が黒く枯死する大被害を受けると、日農県連合会・労働農民党などで被害者同盟を組織して、小作料五割以上の減免を打ちだした。この小作料減免闘争を契機に、県連合会に減免要求準備中のものは十余支部におよび、埴科郡五加村内川支部は地主に交渉を始めた。更級郡共和村の小作人は、霜害を契機に小作組合を組織して、五割以上の減免要求をする意向を打ちだし、これに先だって日農本部から講師を招き、小作争議の実際談を聴く手はずをとった。

 なお、労働農民党北信支部は、中央委員長大山郁夫を招いて、五月二十五日長野市城山館に創立大会を開き、霜害被害者同盟組織、無産者新聞支持、議会解散請願運動、日本労農党・社会民衆党排撃の各件を可決した。「対支非干渉同盟」の件は委員会付託に決定したが、この件のとき臨場の警察官から不穏当のおそれありとして、弁論を中止させられた。

 日農の農民運動とは別に、思想文化運動の色彩の強い農民自治会(以下、農自)の運動が、東京・埼玉・長野の府県で活発となった。大正十四年十二月一日下中弥三郎・石川三四郎・渋谷定輔らのほか、長野県北佐久郡の竹内圀衛も中心メンバーになった。県下では南北佐久・小県・上水内などの各郡の農村青年が中心であったが、都市文明を否定し農村文化を強調して、「農耕土地の自治的社会化」「生産消費の組合的運営」「農村文化の自治的建設」そして「非政党的自治制」という、無政府・アナーキズムの気分が濃かった。そのため官憲からも警戒されていた。同十五年一月県支会設立準備会が佐久中心に開かれ、十月三日農自北信連合が、北佐久郡北御牧小学校を会場に設立された。北信連合とはいっても、東信が主体であった。

 北信地方の農自の組織は、上水内郡安茂里(あもり)村の農村青年たちによって推進された。同村の旧制高校生・代用教員塚田隆雄(のち正覚院住職)が、大正十年「白人会」という文芸と社会科学の学習会を組織し、京都帝国大学の学生となった塚田の指導で、同十四年一月「散鐸会(さんたくかい)」(世の道しるべの意)に発展し、自由人の文化創造を掲げ、教養的な回覧雑誌を発行した。会員青沼治重・佐藤光政ら七人、客員四人という小さなサークルであったが、散鐸会と農自を結びつけたのが、農自の幹部小山敬吾長野中学校(長野高校)教諭で、散鐸会員は社会思想にめざめ、農自北信連合設立準備にはいった。昭和二年事務所を佐藤光政宅におき、長野中学校教諭を退職した小山の指導を受けて「大地ニ立脚セル百姓精神」に立って、会長に安達裕義を選んだ。三月信濃毎日新聞主筆風見章・小山敬吾らが、農村問題・農村文化を論じ、つづいて全国幹事の渋谷定輔・中西伊之助・犬田卯(しげる)・林広吉(『信毎』記者)らが講演をして、農民講座を盛りあげた。

 同年八月十五日安茂里小学校を会場に演説会を開き、聴衆三百余人が会場にあふれ、警察官の「中止、中止」の連続するなかで、小山敬吾・小山勝清・渋谷定輔ら全国幹部が農村問題を論じた。つづいて会場を同村相生クラブに移し、農自新北信連合の発会式を挙げ、六郡二〇ヵ村の百余人が参集した。佐藤光政の経過報告ののち小田切村の宮尾義雄が議長となり、農村モラトリアム期成、繭生産者の団結、電気消費組合の組織など、一一項目を決議した。昭和二年五月の大霜害にたいする日農県連合会の取りくみとともに、農自の全県組織は金融恐慌のときの政府のモラトリアム(支払い延期)を逆手にとって農村モラトリアム期成同盟をつくった。内容は被害桑園の年貢と税金の全免、被害桑園の収入で支払う予定の一切の費用の五ヵ年無利子支払い延期をもとめた。新北信連合のモラトリアムもその一環であった。農自の運動にはこのほか、農会廃止運動や農民自治講習会などがあった。

 昭和三年の三・一五事件で日農の各府県連合会の中心メンバーが検挙され、おおきな打撃を受けたため、組織の再建のために日農と全日本農民組合が合同して、五月二十七日全国農民組合(全農)を結成した。長野県でも三・一五事件で日農県連合会の中心だった小林杜人らが検挙され、検挙をまぬがれた若林忠一・町田惣一郎(須坂町)らが全農加盟をきめ、全農県連合を発足させた。