小作争議と農民運動の衰退

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昭和四年(一九二九)は小作人の村議進出がめざましく、もはや地主層が村政を一方的に支配することは困難になってきた。それは町村議選で小作組合は小作料の改訂などに不利になることから真剣な運動を展開し、地主層が金力・情実に頼ることにたいし徹底的に戦闘気分で正面から運動していった。そのために町村政の内容を暴露していった。警察はこれに神経をとがらせ、戸倉で開かれた更埴農民団体協議会でも協議中に二人の検束者を出したほどである。また、急進的な農民組合は系統農会の不必要論を唱え、そのためにはまず町村農会からやるべしと、昭和四年三月更級郡稲里村、埴科郡南条村、小県郡青木村などで運動が始まっている。

 昭和五年から始まった農村恐慌を端的に示したのは、蚕糸価の大暴落であった。昭和五年三月四日の『信毎』夕刊は、「惨落だ!底無しだ!真暗だ 横浜滞貨の不審な増加は一万梱(こり)に達す」と伝え、横浜生糸相場は一〇〇斤あたり平均一三〇〇円台だったのが五年初めに一一〇〇円台、六月には一〇〇〇円台、九月にはついに五〇〇円台となる急落であった。六〇〇〇釜を誇った北信第一の須坂町の山丸組は倒産した。糸価暴落は繭価の暴落となり、一貫目(三・七五キログラム)あたり十二、三円したのが最低一円八〇銭まで下がった。収入の七割を養蚕に依存してきた県下養蚕農家は大打撃を受け、長野市域の農民もまったく同じであった。

 このような農民の貧窮に加えて、六万人の預金者と三〇〇〇万円以上の預金高をもつ最大手の信濃銀行が昭和五年十一月六日、とつじょ支払い猶予を発表して取りつけ騒ぎをおこし、休業する銀行が相ついだ。これにたいして六十三銀行と第十九銀行は合併して六年八月、八十二銀行となり危機を乗りこえていった。

 賃金未払い、操業短縮、休業などにより失職した工女は五年四月には県下で三万人と報じられた(『信毎』)。全国農民組合県連は第二回大会を上田市公会堂で開き、「悪税の撤廃、土地取上げ・立毛動産差押へ反対」などを大きく取りあげた。翌六年三月の全農県連第三回大会は昭和五年について回顧し、「春夏秋を通じての繭値の惨落、農産物安による農作飢饉(ききん)によって県下農民の窮乏は言語に絶し、夏以来戦はれてきた不況対策運動が結局中農以上を利益せしめたのみのことを全農のバクロとアジによって知った貧農民大衆は小作料減免運動に大衆的に動員された」(青木恵一郎『長野県社会運動史』)と述べている。全農県連は「農民会議・農代・小作人大会・農民大会を開いて、畑小作料全免・借金棒引き・養蚕農民の損失は国庫補助で、肥料・農蚕具は国庫で無利子で貸すよう」などを呼びかけ、五年間の支払い延期よりさらに支払いの無期延期、借金の棒引きを要求した。

 昭和五年から六年、七年にかけて全農の激しい小作争議がたたかわれた(上高井郡日滝村、小県郡西塩田村、埴科郡五加村などが著名)。長野市域では更級郡中津村で昭和五年七月に小作人が大地主を告訴、昭和六年十二月には上高井郡日滝村で全農系の指導者が検挙されたため、小作人側も小作争議を避けて小作料延納の戦術を考えた。これは田小作は籾納だが畑小作料は金納なのでこれを延納するという戦術をとったものである。

 農民運動団体のうち農民自治会は、東信地方の中心的活動者は、モラトリアム(支払い延期)運動後全農に合流するグループ(竹内圀衛ら)とそこから離脱するグループに分裂していった。北信地方でも活動していた安茂里村の佐藤光政らはしだいに農民自治会の運動から離れ、終息していった。

 全農は昭和六年四月に全農総本部派と全国会議派に分裂し、しだいに衰退した。全国会議派の指導者若林忠一(屋代町)は二・四事件の弾圧後、社会運動をつづけるのは困難だとして没落宣言を新聞に発表して運動から離れ、満州へ渡り、『満州日々新聞』の論説委員となった。町田惣一郎(須坂町)も全国会議派にいき、のち総本部派に復帰し、全農再建に努力した。小林杜人(雨宮県村)は共産党員として三・一五事件で投獄され、みずから転向してその後、転向者の指導にあたった。このように農民運動の分裂衰退・無産政党の分裂などがつづき、政府権力の弾圧がきびしく、運動は困難になって戦争政策にのみこまれていった。

 しかし、軍国主義の風潮にたいして抵抗もつづいた。さかのぼって大正七年(一九一八)長野市だけで徴兵忌避者が二五人ある、と報じられた(『信毎』)。神仏に祈願をしたりみずからの身体を損ずる、あるものは家出するという「不忠者」がいるという。また第十三師団管内各連隊区の大正九年度徴兵検査の壮丁の所在不明者は計一九五七人で、そのうち当年初めて所在不明となったものは発見者もふくめて一三九人。そのほかはいずれも行方不明者で尋ねる方法もないもの、死亡時日がわからないものなどが所在不明の籍に入れられている。大正九年中に発見され処置されたものは四〇人である。


写真46 20歳になると徴兵検査に出頭するように本人あてに通達書が出された
(小林唯見所蔵)

 新潟県の高田連隊区管内の①所在不明者、②当年初めての所在不明者、③当年所在発見、徴集処分にしたもの、④所在発見、徴兵検査した人員の総員にたいするパーセントは表20のとおり(『信毎』)。高田連隊区管内で最多は中頸城郡で、県内では上水内郡の七四人である。所在発見のうえ、徴兵検査をした人員で総数にたいするパーセントでは上高井郡が新しく加わり七・一四パーセント。第十三師団管下連隊区の比較も付記してある。


表20 高田連隊区管内壮丁行方不明者数(大正9年度)

 昭和に入って軍部を中心にした中国大陸での軍事行動は、昭和二年の第一次山東出兵、昭和三年の第二次山東出兵に象徴されるように表面化してきた。こういう動きに反対する政治運動が非合法とされていた日本共産党や全農や日本労働組合全国評議会により展開された。昭和四年八月一日の国際赤色デー当日、県特高課は県下各署に警戒を指示していたが、埴科郡戸倉温泉で反戦の「不穏ビラ」を前夜の九時ごろ二人の青年が自転車できて電柱に張って逃走、翌朝警察署が発見した。ところが県特高課の膝元である長野市内の電柱などにも「戦争反対だ」「○○○万歳」の「不穏な宣伝ビラ」が前夜張りつけられた。

 昭和五年六月十二日北信地方第二回目の特命検閲が大々的におこなわれ、井上(幾太郎ヵ)陸軍大将が特命検閲使として長野市にくるというので、長野警察署はそれに備えて全市を警戒した。ところがその前日の十一日夜、市内県町付近の電柱に「帝国主義戦争反対」のビラが貼付されるところを警邏巡査が発見した。警察署は、「犯人」は去る五月二十七日の海軍記念日に北佐久郡北御牧村付近で同様の反帝国主義の宣伝ビラをまいた反帝同盟の一味とみていた。松本でも井上特命検閲使が来松するので本郷村浅間温泉一帯に管内から五〇人の巡査を集めて配置した。

 特命検閲は地方の軍事体制の状況を把握するもので、北信東信の長野・上田二市と九郡から総動員した在郷軍人・中等学校生・青年訓練所生六〇〇〇人が長野市中央道路に集合した。長野郵便局から長野駅前交番まで一・五キロメートルの道路に整列し、鈴木知事・丸山市長・小西学務部長らを従えた井上特命検閲使の閲兵を受けた。そののち井上大将は権堂町のつゞき屋呉服店前にしつらえた壇上に立ち、松木第十四師団長・松本五十連隊代表・鈴木知事以下の県官とその夫人らも横にならび、動員された人びとはその前を分列行進した。大将は「皇国の盛衰かかって諸君の双肩にある」と訓辞した。新聞は「仏都は挙げて戦線気分、燦爛(さんらん)と輝く太陽、大空に響く喇叭(ラッパ)の音」と書きたてた(『信毎』)。県特高課と長野署は宣伝ビラを警戒して総出動した。

 翌昭和六年九月満州事変がおこされ、軍国主義と戦争意識がますます高められていった。