労働運動の展開

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昭和二年(一九二七)三月に片岡直温蔵相の議会発言から、三月十五日金融恐慌となり各地の産業界に影響をあたえた。

 上水内郡安茂里村の小林織物工場(同村経営者)では、不況のため賃金二割引きを通告された工女が、同年六月労働農民党北信支部の支援を受け八項目の要求書を会社に提出した。拒否されて工場を閉鎖された工女は争議に入り、その結果賃金は従前どおり、年二回賞与支給、工場の設備完成、争議中の日給支給の四項目を工場がわが認めた。二〇人前後の小人数ながら勝利した工女がわは七月十六日北信支部の原山猛雄宅で工場がわ代表も出席して組合発会式をおこなった。これは県下最初の女性だけの労働組合である。組合長一由さい、会計柳沢ます、同山田よしの、幹事四人がきまった。争議の写真には労働農民党の原山、小林杜人、若林忠一、町田惣一郎、上条寛雄らが工女とともに入っている。


写真47 小林織物工場争議を記念して、昭和2年(1927)撮影 後列左から3人目若林忠一、つづいて小林杜人、1人おいて町田惣一郎、中列左から2人目上条寛雄
(『若林忠一遺稿・追悼誌』より)

 昭和二年県下の労働争議が増加し、諏訪郡平野村岡谷において、工女を主体にした山一林組の大争議がおこった。

 この間、大正十四年(一九二五)五月に共産主義を取り締まる目的で治安維持法が施行され、国体の変革と私有財産を否認する政治運動をきびしく弾圧した。昭和三年六月には緊急勅令によってこの法律を改正し、死刑をふくめ目的遂行罪を追加した。前年の山一林組の大争議から新局面に入った県内の労働情勢について、日本共産党信越地方委員会のオルグ河合悦三は、同年上条寛雄(南信)・小林杜人(北信)・山崎稔(中信)らと「長野県組織テーゼ」を作成し、そのなかで、全国一の製糸工場地帯をもち、長野市の鉄道工場八〇〇人、信濃毎日新聞社工場二〇〇人をはじめ交通労働者も少なくないのに、日本労働組合評議会系の組織も日本労働総同盟系も少なく、共産党の働きかけがないか、あるいは弱いと分析した。

 昭和二年の金融恐慌を背景に伸びてきた労農運動にたいし、翌三年の三・一五事件の弾圧により諏訪の南信一般労働組合の上条・中信出版労働組合の小林勝太郎・山崎稔などの労農党員・評議会系組合幹部が検挙された。日本共産党の政治的経済的闘争の公然とした大衆的舞台だった評議会が三・一五事件の一環として四月十日に禁止されると、南信一般労組・北信一般労組が解散させられた。昭和三年十二月評議会にかわって結成された日本労働組合全国評議会(全協)は最初から非公然活動を余儀なくされた。

 農村恐慌を背景に長野市域でも、昭和五年十月長野市で組織された北信一般労働組合は、翌六年四月十六日の四・一六記念日に全協日本土建労働組合長野支部となり、東北信に四分会をもち、昭和六年五月一日メーデーに朝鮮人労働者を主体に活動した。同長野支部は善光寺白馬鉄道(善白鉄道)の賃金支払いに交渉やストなどで会社重役陣に圧力をかけた。請負の山陽工業と労働者が労賃不払いで対立、会社はトンネル工事を中止し百五十余人を解雇した。労働者がわは、代表五十余人を出して市内の事務所に押しかけた。不穏とみた警察署は解散させ、岡田長野署長の仲介によって一万二〇〇〇円を会社がわが支出することにきめ解決した。全協土建労組長野支部は、折からの犀川・丹波島架橋工事のストも指導した。昭和六年中全協日本交通運輸労働組合長野支部は国鉄長野駅、私鉄・乗合バス労働者を組織した。また、全協日本出版労働組合長野支部も昭和六年十月準備し、七年二月支部準備会を確立した。全協日本繊維労働組合長野支部は、信州製糸労働組合の指導部が検挙されると、いち早く再建して昭和五年十一月組織を確立、六年四月正式に確立して諏訪・伊那・須坂の三地区分会をつくった。

 しかし、全協土建・運輸・出版・繊維など各長野支部は昭和五・六・七年と治安維持法違反によって弾圧され、指導部があいついで検挙された。全協各支部はねばり強く再建に努力し、うち全協繊維は本部より岡田(鈴木)清子(松本市出身)らをオルグに派遣した。岡田は諏訪・松本・佐久などで活発・巧妙にオルグ活動したが検挙され、長野刑務所に拘置された。全協土建労組は本部から長野支部オルグに朝鮮人鄭讚植を派遣し、上高井郡市川橋工事争議と同志朴祥俊の救援活動を計画したが、メーデー闘争を計画中に昭和八年三月十五日検挙された。

 昭和八年二月四日に始まる二・四事件は、県下最大の治安維持法違反容疑検挙事件であり、県下の社会運動全般を壊滅させ、戦争協力体制に追いこんだものであった。六〇八人の検挙者のうち二三〇人(うち非教員二二人)が教員だったために「教員赤化事件」と喧伝(けんでん)され、教育統制のために意図的に宣伝もされた。教員は新興教育研究所(のち新興教育同盟準備会)および全協・日本教育労働者組合などに組織され、少数の女性をふくめ若い教員が多かった。また日本共産党・日本共産青年同盟(共青)・全国農民組合(全農)・県連合青年会(県連青)のメンバー、教労以外の全協各支部関係組合員などにわたり、教労関係以外では全農・県連青などが多かった。

 蚕糸業はじめ農村恐慌の嵐のなかで社会矛盾に苦しみ、社会科学とりわけマルクス主義の世界観・歴史観によって矛盾の原因を考えた青年たちは中国大陸での侵略戦争によって平和や人権の不安を増幅され、階級的変革のため組織活動に入った。若い教員や労働青年・農村青年が活発に動きだし、それは非公然の活動として浸透し、その動きを恐れた官憲当局は徹底的に弾圧を加えた。

 昭和五年に結成された新興教育研究所は反動的ブルジョア教育の批判と新興教育の科学的建設とその宣伝をめざして合法的に活動することをめざし新教同盟準備会となり、同年発足した。日本教育労働者組合(教労)は全国的な教員組合を結成し、自己解放とプロレタリア貧農児童の解放、支配階級との闘争をめざす非合法活動団体であった。長野県では昭和六年に上伊那・諏訪に新教支局が結成され、昭和七年二月八日教労長野支部が結成され、教労更埴・長水地区は三月六日に結成された。こうして新教・教労は県下に急速にひろがり、官憲当局が気づいたときは相当な組織として活動していた。

 検挙者を出した学校は、諏訪・上伊那・下伊那・小県・佐久・南安曇などの各郡に多く、長野市域では長野市柳町・上水内郡浅川・更級郡塩崎など計六校であった。教育会内部で教員にひろがったのは大正期からの白樺派の自由思想の影響と最近の社会的な行きづまりにあるとする論調が紹介されている(『信毎』)。県当局は対策として、思想問題にかかわった教員の調査や県視学の増員、思想問題講習会の開催、「非常時日本」の教育への努力などをあげ、五つの綱領からなる宣言と思想対策を発表した。

 二・四事件を契機に長野県の活発だった社会運動は右傾化・国家主義化し、教育もまた自由教育さえ捨てることになり、「興亜教育」により満州青年移民(十三年一月に満蒙開拓青少年義勇軍と改称)の送出に狂奔することになった。

 長野市域のメーデーは、労働者や農民など働く人びとの生活や権利の向上と団結を高める目的で、昭和六年五月一日初めておこなわれた。県内では屋内メーデーは大正期からあったが、昭和五年五月一日屋外メーデーが初めて上田市・伊那町でおこなわれ、長野市では翌年に始まった。同年四月十五日長野地方労働組合会議は長野土木建築労働組合・全農県連合会・信濃合同労働組合・長野交通運輸労働組合準備会等に参加を呼びかけ、参加人員四〇〇人を見こんだ。ついでスローガン・行進順路を決めた。五月一日は五月晴れのメーデー日和となり、午前一〇時市内山王小学校前道路に集まったのは全農や法被(はっぴ)姿の朝鮮人労働者たち三百余人。「八時間労働制の実施」「土地取上げ絶対反対」のスローガンを掲げた長旗・赤旗が風に吹きながれた。取り締まりの長野署は岡田署長指揮の署員百数十人があご皮かけた帽子をかぶりゲートル(巻脚絆)をつけたものものしい警戒ぶりだった。午前一一時には同日朝釈放された長野土建労組の中島俊一が市営プール門上に立って演説、「労働者・農民の世界的祝祭日メーデー闘争によって団結の力と戦闘的威力を支配階級にたたきつけなくてはならない」と述べた。総指揮者の全農町田惣一郎がデモの注意と激励をして一一時一〇分長野土建労組の百余人を先頭に行進、デモは警官の垣に囲まれて山王小学校から長野工業、中御所、七瀬、長野鉄道工場(その前で喊声(かんせい))、千歳町、末広町、県町、勧業銀行前から中央道路に入り、西後町で舗装工事中のため狭い歩道で行進隊と見物客がぶつかり混乱した。行進隊が引きかえそうとして制止の警察官とぶつかり乱闘になろうとした。

 全農の若林忠一と長野土建労組の小林光雄が拘束されたのを知って、両人を奪還せよと労働者が騒ぎだしたので長野署も釈放した。仁王門から元善町をへてデモは城山グラウンドに繰りこんだ。城山広場で演説させろさせないで太田長野署高等主任と司会者が押し問答となった。若林と長野土建組合の横山某が太田主任の「中止」の声に反発して演説、最後は中島・町田両指揮者が演説し、労働者・農民の万歳をして仏都初のメーデーが終わった。参加者は腰にぶら下げた握り飯をかじって午後二時解散した。

 この日、上田市で第二回メーデーを実施し、須坂町では初のメーデーがあり、駅前に集まった三十余人が臥竜山までデモをした。

 昭和七年統制はさらにきびしくなり、全協系土建組合などの参加を認めず、デモ隊は八十余人にすぎなかった。「パンと職を与へよ」「ファシズムを粉砕しろ」というスローガンがみられた。いったん解散して警戒が解かれたあと、デモ参加を認められなかった善白鉄道工事の朝鮮人労働者(全協長野土建労働組合)が長野市西長野から城山公園にかけ足デモをおこない、五十余人が検束された。この日、上田市・伊那町でも全農主催のデモがおこなわれたが、昭和八年になると全農や全協への弾圧が激しく、長野市ではメーデーは実施できず、上田市でもメーデーを休止、以後戦時下長野県ではメーデーはできなくなった。