水平社と信濃同仁会の活動と推移

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昭和二年(一九二七)の大霜害と金融恐慌によって、県内の被差別部落は深刻な打撃を受けた。零細農家が多く、養蚕偏重で家業以外の職業従事者のうち女子の大部分は製糸工女であったから、繭糸価格下落は痛手が大きかった。また、不況によって就業の道も閉ざされ、収入の道を奪われていった。こうしたなかで県水平社内部に、反共アナーキズム系(無政府主義系)の執行部とボルシェビキ系(ソビエト共産党系)の若手活動家たちとのあいだに思想上の対立も生まれた。

 このような状況下にあったが、県水平社は二年一月に小県郡に、同年八月には東筑摩郡に水平社支部を結成した。同年十二月から始まり四年一月までかかった小県郡西塩田村の区有林闘争では、西塩田水平社員が信濃同仁会と共闘し、五年二、三月の南佐久郡平賀村の瀬戸区有林闘争では、瀬戸水平社が全国農民組合と共闘をおこなって勝利をおさめた。全国水平社長野県連合会の昭和四年の組織をみると、一〇支部一七〇人(県青年水平社を合わせると二六六人)であった。支部は埴科一・小県三・北佐久三・南佐久二・東筑摩一で、来信地方が中心であって現長野市域には支部はなかった。

 昭和三年八月長野刑務所の中牧彦次郎看守が、暴れた服役者を縛っていた紐を無断で解いた命令違反を理由に、八月三十一日付で解雇されるという問題がおきた。中牧看守が水平社員であることから、看守の同僚や看守部長が侮辱し、ささいなことを命令違反だとして退職を脅迫的に迫り、退職させられたとの訴えによって、九月十日午前一〇時県水平社執行委員の朝倉重吉・小山薫が調査にはいった。富樫所長は差別退職を否定し、命令違反により懲戒免職すべきところを、病気理由の依願退職に配慮したとも述べた。同日午後二時、朝倉重吉は中牧看守をともなって長野地方裁判所検事局を訪ねて事情を訴えたところ、原田検事が翌十一日に刑務所へ行き富樫所長に真偽の調査をすることとなった。

 県水平社は、十月二日午後一時半から城山蔵春閣において、三〇〇人余の参集をえて糾弾演説会を開催した。執行委員朝倉重吉のあいさつののち、青年水平社の高橋市次郎の「所感」・成沢量一の「水平社会建設へ」・高橋くら子の「部落婦人の立場」の演説は、いずれも警官の「弁士注意」を受けつつ、不法の圧迫と侮蔑(ぶべつ)を受けている水平社員のために熱弁をふるった。さらに朝倉重吉は、中牧看守差別問題の真相について報告し、長野刑務所にたいして抗議をおこなった。信濃同仁会は、中牧看守の問題は長野市内での差別事件であったので、長水支部幹事小林仙苗・平坂岩吉によって調査をすすめたが、県水平社が解決にあたっているので、成り行きを見守ることとなった(『信毎』)。

 六年一月の南佐久郡岸野村沓沢区有林闘争では、一青年水平社員の偶発的行為をきっかけに、居合わせた県水平社の幹部が逮捕され、暴力行為に指導があったとされて有罪の判決を受けるという弾圧を受けた。このため、さまざまの差別問題や区有財産に関する闘いは中断せざるをえなくなり、その後の活動もやりづらくなった。この間に信濃同仁会は、佐久地域に進出して支部を結成した。


写真48 信濃同仁会の機関誌『同仁』の第51号、54号

 信濃同仁会では、県水平社の臼田警察署差別事件闘争勝利の影響を受けて、青年層からいままでの講演会中心の精神主義的な啓発活動や妥協的な差別との取りくみに批判がでてきた。そこで昭和二年に、従来の消極策の殼を破って、積極的運動の方針を立て、同三年一月二十一日から三日間、五四人を集めて第一期指導者養成講習会を開いた。学校での講演会や文書宣伝の言論運動に加えて、方面委員・男女青年団などとの連携を大事にし、差別事件が起きたときは「出張・駐在・解決」運動をすることとなった。いままでの活動成果が目に見える状態ではなかったから、各地における青年会・婦人会・消防団・祭りなどの差別問題には、聖旨奉戴(せいしほうたい)(五ヵ条の誓文「旧来の陋習(ろうしゅう)を破り天地の公道に基くべし」)を盾に、出張して解決するまでは現地を動かないという方策をとるようになった。同年二月二十四日に信濃同仁会青年連盟が結成された。決議には、差別にたいしては「合理的糾弾をなす」という文言がはいっていて、水平社の差別へのたたかいの刺激を受けて、差別撤廃闘争に力が入れられるようになったことがわかる。このとき青年連盟への加盟者は二二九人であったが、二年後には五四二人と急増している。同年十一月三日の明治節(せつ)を、中央融和事業協会の提唱に従い信濃同仁会は差別撤廃の「国民融和日」と定めた。

 翌四年四月には、①精神の修養、②心身の鍛練、③差別の除去、④共同心の訓練の四点を目的とした少年団を発足させた。中津支部の場合は、小学校尋常科一年生から高等科卒業(または一七歳)までの年齢層のもので組織し、同年五月十日に発足した。その活動は①夜学を七時~九時(十一月二十日~三月三十日)、②毎月八日・十八日・二十八日の午前四時~六時に国道・県道の清掃、③日曜日ごとに用水の清掃、④十二月二十五日~三十一日に夜警、という内容である。同七年には従来あった婦人会を支会婦人部として設立し、会員一八人で発足して、節約会・修養会・遠足などの活動をおこなった。

 翌八年に青年同志会に少年少女部が結成された。年齢は少年団と同じで、活動も重なるものが多かった。

 このころ、信濃同仁会の北信地区の支会は単独または合同して、つぎのような活動をしている。六年三月に更級支会は融和宣伝隊を組織して、七日間にわたって夜集まって宣伝の練習をしたのち、十四日午前七時半に篠ノ井駅に一八人が集まり、ここを起点に小森→東福寺→小島田→青木島→長野市(中央通り中心に)の順で、融和宣伝をおこなった。途中、理事平坂岩吉宅で茶菓、昼食は理事宮下友雄(長野庶民信用組合組合長)宅で接待を受け解散は午後五時半であった。三月十四日は、五ヵ条の誓文のだされた日として全国の融和団体はこの日を「国民融和日」としたので、信濃同仁会もそれに合わせるようになって、この宣伝がなされた。翌七年三月十四日は、更級支会・長水支会内の四支部が合同して、長野市一円にわたって融和宣伝をおこなった。更級支会では、自筆のポスター(模造紙四つ切り)八〇枚を作成して居村および長野市一帯に張った。ポスターには、国民融和日の文字を真ん中に、それを囲むように差別撤廃の文字があり、「人を敬(うやま)ふは己(おのれ)の貴(たふとき)なり、人を蔑(さげ)しむは己の賤(いやし)きなり」という文があった。これは全国融和団体皆同じとなっていた。


写真49 同仁会から寺尾村に出した国民融和に関する通知書

 信濃同仁会一五周年記念大会が昭和十年十一月二十四日上田市公会堂において、開かれた。この大会では「吾等は常に一視同仁の趣旨を奉戴し、人権尊重同胞融和の実を収め、国民一体の成果を期す」「吾等は自覚更生の真義に徹し、協心戮力挺身躬行(きょうしんりくりょくていしんきゅうこう)して之が貫徹を期す」「吾等は厳正なる批判と対策により、不合理な差別観念の根絶を期す」という決議がなされた。

 信濃同仁会では、内部の路線上の対立から、翌十一年二月十七日に信濃同仁会県移管期成同盟会がつくられた。そこで本部が県移管に動いた北信の五人を除名したので、組織分裂の危機となった。除名されたものたちは三月二日に長野市東町中野会館において、五〇人を集めて県融和事業協会の結成式をおこなった。信濃同仁会の分裂を憂えた理事宮下友雄・更級方面委員宮入源之助・前中津村長小池一男の三人の奔走によって、五月十八日に信濃同仁会と県融和事業協会の代表者が県庁に集まり、学務部長・社会主事立ち会いで、「両者は白紙に戻す、県移管は自然解消、除名者や脱退者は信濃同仁会に復帰する」という内容で手打ち式がおこなわれた。

 しかし、十二年三月二十五日には緊急臨時大会を開いて、組織改正・本部移管の決議をし、四月一日に長野県同仁会と改称して、県知事を会長とした。四月二十日の県同仁会理事会で、目的を「本会ハ、一視同仁ノ聖旨ヲ奉戴シ、国民融和ノ実ヲ挙グルヲ以テ目的トス」と定め、事業方針とともに県内を七地区(長水・更埴・高水・佐久・上小・中信・南信)に区分し、各区に支会を設置し、各市町村に分会と更生委員会を設置することとした。その組織体系は図5のようである。現長野市域出身者の本部役員としては、理事五人のなかに藤井伊右衛門と平坂岩吉、評議員三四人のなかに長野市の宮下友雄、篠ノ井町の柳沢貞雄と宮入源之助、中津村の武森太郎、保科村の丸山数實、川田村の小山市治郎がはいっていた。


図5 長野県同仁会組織体系
(昭和12年7月『長野県同仁会要覧』より)

 十二年七月七日日中戦争が始まり、八月二十四日に「国民精神総動員実施要綱」が決定されると、水平社運動と同仁会の融和運動に大きな影響がでてきた。九月十一日の全国水平社拡大中央委員会では「ことここに至った以上は、国民として非常時局に対する認識を正常に把握し、《挙国一致》のために身分的差別を存続させてはならず、そのために差別対象の土台をなしたる部落経済の組織化と向上を図り、以って非常時経済情勢の苦難を切り抜ける」という方針を提起した。長野県連合会は翌十三年三月二十七日に第十五回大会を開き、全国水平社の方針を受けて転換を進めた。戦時下の影響で産業が停滞して生活が困窮化していき、経済更生運動が思わしくないなかで、満州移民が前面にとりあげられてきた。水平社県連の朝倉重吉・高橋利重たちも満州視察をおこなっており、国策に従い他団体とも協力して融和的方針に転換せざるをえなくなったのである。


写真50 昭和13年3月、日中戦争下の水平社運動の苦悩がにじみ出ている水平社長野県連15周年記念大会のポスター
(『大阪人権博物館展示総合図録』より)

 十三年には、県は被差別部落一地区二人ずつ(二一~四〇歳)割りあて、二泊三日で地方改善中堅人物養成講習会を県内五ヵ所で開き、さらに市町村の代表を集めて一泊二日で市町村融和事業指導者講習会を開いた。また、満州移住ならびに職業進出適格者養成のための基礎訓練として、更生訓練講習会を開いた。更生指導員には、佐久支会高橋利重、上小支会木藤岩雄、更埴支会武捨雄、長水支会坂内弥太郎、高水支会竹前致道、中南信支会原田亨一の六人がなっていた。同年には県は一〇六人の教師を集めて、教育者融和事業講習会を開き、翌年は郡市別で融和教育研究会を開いている。

 さらには満蒙開拓青少年義勇軍訓練所への入所、南洋拓殖挺身隊への応募、満州飛行機製造会社工員や陸海軍工廠(こうしょう)工員への応募がすすめられた。満州への開拓移民・満州青少年義勇軍などによって、差別が解消し、理想郷が満州に実現するような幻想をもって宣伝し、失業者救済のてだてにもしようとしたのである。

 昭和十六年五月二十六日に県同仁会は県立図書館で代議員会を開催し、満州移民と大政翼賛運動について協議した。そして、同仁会の存続はかえって特殊事情を維持する結果となるから、一億一心体制をつくるため、二〇年の歴史をもつ同仁会も解散に向かう機運を醸成していくことになった。十一月には同仁会は同和奉公会となり、同月の講習会も同和事業促進指導者練成講習会という名目となった。翌年三月十四日は国民同和日と改称し、すべて翼賛体制のなかに組みこまれていった。このころから、融和教育の語と共に、同和教育の語が用いられるようになってきた。

 太平洋戦争開戦直後の昭和十六年十二月二十一日施行の、「言論・出版・集会・結社等臨時取締法」が全国水平社にも適用され、翌十七年一月二十日に全国水平社は解消のやむなきにいたった。