明治二十年代に燃えあがった公娼廃止論や廃娼運動は、日清戦争・日露戦争という日本が初めて経験する国家あげての近代戦争や、戦後の祝賀気分のなかで下火となった。大正二年(一九一三)には長野市の東方への発展策のために、鶴賀遊郭の箱清水または古牧方面への移転案が市当局や議員のあいだで協議されたが、移転に一〇〇万円もかかるということで計画はすすまなかった。六年十二月の長野市政調査会では決議報告書のなかで遊郭移転に関して、「長野市鶴賀新地ニ於ケル貸座敷営業地域ハ、本市ノ膨張発展ニ随ヒ公益上支障少カラズ候間、将来適当ノ場所ニ御指定換相成度(後略)」という意見を提出した。この動きのなかで九年五月、また箱清水への移転案が浮上したが地元青年会の反対にあい、十五年二月には芹田若里区の遊郭移転誘致の動きがあったものの、いずれも実現にいたらず立ちぎえとなった。
長野県内で再び公娼廃止の議論が高まり、廃娼運動が活発になるのは大正十三年ころからである。三月二十三日に小布施青年会は「自由結婚の可否」をテーマに公娼廃止問題について討論し、四月十四日には上高井連合青年会が須坂小学校で、「公娼廃止の可否如何」と題して討論会を開き、採決の結果公娼廃止説が絶対多数で支持された。翌十四年四月には下高井郡穂波村・夜間瀬村の青年会などが、「遊郭は青年に害毒を流すものだから一掃か移転を」と、十五年の協定満期を機会に湯田中遊郭継続反対運動をおこした。松本市・東筑摩郡・南安曇郡・北安曇郡の一市三郡連合青年会でも、「公娼廃止に対し青年のとるべき態度如何」について討論し、公娼廃止を決議して県連合青年会へ提出するとした。
現長野市域での廃娼運動は、大正十三年十二月十七日に県町の日本メソジスト長野教会で、安部磯雄(廓清会会長・のち社会民衆党代議士)の公娼廃止についての講演会をひらき、翌十四年十月二十八日に県町の教会に全国キリスト教矯風会の久布白落実、廓清会の伊藤秀吉を迎えて矯風会長野支部の発会式をおこない、十一月二十一日に同教会に廓清会評議員の明治学院総理田川大吉郎を招いて廓清会長野支部を結成したことに始まる。
同年十一月の県議会では長野市出身の松橋久左衛門が「廃娼問題に対する県の研究如何」と質問して、県と県議会に廃娼問題の一石を投じた。松橋議員は翌年十二月二日に急逝し、廃娼運動の人びとからその死を惜しまれた。県は十五年六月に警察部長を集めて、①娼妓の最低年齢を一八歳から二〇歳にする件、②自由廃業に関する件の二件について会議を開き、公娼に関して対処の仕方の検討を始めた。
全国婦人矯風会と廓清会では、廃娼実現のためには全国規模では散漫になると考え、大正十五年八月に埼玉県と長野県を選び、重点的に廃娼運動をすすめることにした。埼玉県は明治八年(一八七五)に廃娼決議をしたが、翌年熊谷県廃止で埼玉県に合併したところ、本庄・深谷両遊郭が県内に存在することになって廃娼運動が始まっており、長野県は教育の普及した県で青年会・婦人会活動が盛んで、禁酒・廃娼の運動もおこなわれていたからである。これにたいし鶴賀遊郭の貸座敷業者は、同八月に自由廃業をすすめにくるものへの自警団を組織し、自由廃業防止のために娼妓相談所を設け、九月に長野県貸座敷業者大会を長野で開催して廃娼反対運動をすすめた。しかし、この大会に参加していた上田遊郭の組合長が、この商売にすっかり嫌気がさしたとして、十月一日四人の娼妓に前借金全部をあたえて解放し、廃業してしまうということもおこった。同じような業者が鶴賀遊郭にもいたのか、表21にみるように貸座敷業者は減少傾向を示している。
大正十五年十月にはいると矯風会長野支部と長野・松本・上田三市の婦人会は、街頭で二万二一三〇人の廃娼賛成の署名を集めて県会に送った。『信毎』に賀川豊彦が「狼火は上がった-奴隷解放戦線に参加せよ-」を寄稿し、公娼という奴隷制度・搾取制度を撤廃し一七万七〇〇〇人の女性解放の戦いに参加するように呼びかけた。十一月二日に城山蔵春閣において、矯風会長野支部主催・長野市婦人会後援の公娼廃止講演会が開かれた。この会の会場は当初善光寺大本願明照殿に決まっていて広告もされていたのが、何ものかの干渉・圧力によって会場使用を断られ、やむをえず蔵春閣に変更したものである。午後二時と七時の二回おこない、昼は久布白落実が「長野の婦人に訴う」、高島米峰が「婦人問題について」と題して講演し、夜はガントレット恒子が「母の立場より」、高島米峰が「婦人問題について」と題して講演した。昼は一〇〇人ほどであったが、夜は六〇〇人以上の聴衆を集めて盛りあがった。しかし、前列には三〇人ほどの壮士が肩をいからせて座り、太いステッキをもって講師をにらみつけたり野次を飛ばすありさまで、私服・制服の警官が警備にあたっての講演会であった。なお、ガントレット恒子は当日の午後、日本メソジスト松代教会で講演したあと長野へかけつけている。
昭和二年(一九二七)十月十一日、日本メソジスト長野教会で、公娼制度撤廃を目的とする長野県廃娼期成同盟会が発足した。理事長には長野教会牧師の牧田忠蔵が選ばれ、常任理事二人・理事九人もきまった。役員の大半は県内のキリスト教教会の牧師や信徒であった。同日夜教会内で、廃娼期成同盟会主催の公娼問題講演会が開かれ、百数十人が参加した。そして十二月十六日城山蔵春閣で、廃娼期成同盟会主催の廃娼問題大講演会を開いた。翌十七日の矯風デーには長野市内七ヵ所で街頭署名をおこない、十二月県議会に三万五四三九枚の廃娼署名簿を提出した。しかし、県会の政友会派・民政会派の激しい政争に巻きこまれて、廃娼決議案は提出されずにおわった。
この時期に『信毎』は、公娼問題をひんぱんにとりあげた。昭和二年九月に中野夢影の「公娼を救う手あり私娼を顧みるなし」を二回、十月に高島米峰の「公娼制度を論ず」を五回、十一月にダニエル・ノルマン牧師の「廃娼運動について」を二回掲載し、さらにノルマンの「公娼制度について一外人は語る」も載せた。
昭和三年になると矯風会長野支部は婦人会・青年会・禁酒会・処女会などと協力して、街頭署名による四万三〇〇〇通の署名請願書を県会に提出した。これに対抗するために、鶴賀遊郭ほか六遊郭の代表者は、提案予定者の小野秀一県議(西筑摩[木曽郡])に「公娼廃止建議書提出猶予に関する県下営業者の請願書」を提出した。これは県下同業者の総会を開いて、社会の要望にそうように具体的最善の方法を決めるので、建議を一年延期してほしいという陳情であった。政党間のかけひきもあり、けっきょく小野秀一県議は建議を中止し、廃娼運動をすすめてきた人びとを落胆させた。しかも、業者がわは小野県議との約束もほごにして、何の改善策もとろうとしなかった。
この請願書をめぐって、鶴賀遊郭と上田遊郭が対立した。鶴賀遊郭は廃娼反対で一寸延ばしに現状のままの継続を考えたのにたいし、上田遊郭は公娼を廃止し群馬県のように指定地域内で営業する飲食店経営を考えたからである。また、飯田二本松遊郭では廃娼への先手をとって、娼妓全員に踊りや歌を仕込んで芸妓への昇格を試みた。全国的な廃娼運動や増える私娼などとの板挟みのなかで、貸座敷業者たちは生きのこりの手だてを模索していたのである。
埼玉県では昭和三年に、きびしい運動のすえ県会で廃娼決議をした。同年、福井県・秋田県・福島県でも各県会で廃娼決議をしたが、長野県では県会議員への貸座敷業者の強い働きかけや、遊郭をめぐる地域の利害関係などもからみあって県会で難航したのである。
廃娼期成同盟会は、昭和四年十月に廃娼請願書署名デーをきめて街頭署名をおこない、請願書六万六六四五通を県会に提出した。十二月四日に小野秀一・宮下周(小県)・百瀬興政(松本)・三村惣平(南安曇)の四人によって「公娼制度撤廃案」が提出された。しかし、賛成議員は一六人(定員四四人)であったので、小野は廃娼決議へつなぐものとして「女子参政権に関する意見書」を出すことにした。十日の本会議で廃娼案と婦選案は一括上程され、廃娼案は委員会付託にされて審議未了で葬られ、婦選案は十二日本会議で可決されるという結果となった。『信毎』は議員の態度について「なぜ、明確な意思表示をしないのか、ことさらにその意思表示を避けて、朦朧(もうろう)的な審議未了を理由つけしなければならぬ県会は、まさに噴飯すべきヂレンマに陥っている」と県会の姿勢を批判した。廃娼運動に奔走した小笠原嘉子は「廃娼絶対反対を唱える議員がほとんどいないのに通らないのは、選挙地盤の情実のみとみる外ない」と嘆じている。
廃娼期成同盟会員は昭和五年には、県会議員への個別訪問とともに県内各団体に働きかけて、県会での法案可決をめざして運動の拡大をはかった。四月二十三日から三日間、長野市の信濃教育会館で矯風会全国大会が開かれ、全国から二百余人の代表者が集まって、長野県の廃娼運動への支援をおこなった。長野支部の大会提出議案は、①公娼廃止促進に関する方策如何 ②児童に平和観念鼓吹方法如何の二項であった。この年は県内各地の婦人会・青年会・処女会・禁酒会など六四二団体から廃娼声明が出された。廃娼期成同盟会は県議会開会中の十二月八日に城山館において、廃娼運動家の星島二郎代議士(政友会)・小野秀一県議など四人の講師による「社会廓清大講演会」を開いた。来聴者は三百余人に達し、「我らは公娼制度の撤廃を期す」という大会決議を採択した。
廃娼建議案が委員会で通りそうな状況になったので、県下の貸座敷業者は廃娼は死活問題であるとして、代表者が続々と長野市にくりこみ県議にさかんに陳情をおこなった。また十三日に松本の横田遊郭では、数十人が県会へ示威運動に出県しようとして、松本駅で警官に阻止されるという事件もあった。
前年の四人に田中邦治(上高井)を加えた五人の建議で提出した「公娼廃止に関する意見書」は、田中弥助(長野市)ほか一三人の賛成をえて上程され、十四日の深夜の本会議で起立多数で可決された。意見書のなかには「今日女子参政権ヲ叫バルルニ到リ(中略)抑モ集娼公認ノ本制度ハ、風紀衛生上ハ勿論国際対面上一日モ存知スベカラザル悪制度ナルコトハ、国論ノ略一致ヲ見タル所ナルモ、公民権ヲ賦与セラルベキ婦女子ニ対シ最モ貴重ナル貞操権ノ存在ヲサエ認メザルノ一点ニ到ッテハ、制度ノ矛盾蓋(けだ)シ之ヨリ大ナルハナカルベシ」の文言があり、女子参政権・公民権・貞操権ということばに人権意識の高まりが読みとられる。ただし、公娼廃止は「向フ七ヵ年ヲ下ラザル猶予期間ヲ以テ」という原案が、委員会の審議において、「向フ十年後ニ於イテ」というような妥協・修正がされた。しかし、業者や雇われた暴力団のテロの危険さえあるなかで、警官に守られて傍聴していた同盟会の人びとの喜びは大きかった。公娼廃止にむけての八年にわたる血のにじむような努力が報われ、人権擁護運動の大きな成果となった。
昭和六年十月十七日には、廃娼促進同盟会が組織された。この会の目的は「我国公娼制度ノ撤廃ヲ期シ、マズ本県ニ於ケル公娼廃止断行ヲ促進スル」ことにおかれていた。この同盟会には矯風会長野・松代・松本・上田・上諏訪などの各支部、長野友の会、岩村田教会婦人会、小諸メソジスト教会共励会、南信新生会、廓清会松本支部、小諸婦人排酒会などの団体が加盟した。しかし、この年に満州事変、十二年には日中戦争がおこって、日本は戦時体制にはいった。昭和十四年十二月の県会で、小野県議が「県当局は、果たして十年前の意見書を尊重して、これを断行する意志ありや。」と質問して、公娼制度撤廃を迫ったところ、これにたいし沼越警察部長は「遺憾ながら皇紀二千六百年には尚断行できる域には達しておらぬ」という否定的な答弁をした。日本の紀元二千六百年は昭和十五年にあたるとされ、二月十一日を中心に全国的に祝賀行事がおこなわれた。翌十六年十二月には太平洋戦争に突入し、戦争激化とともに人権運動は押さえつけられて、廃娼決議は実施されないまま二十年八月の敗戦を迎えた。