治安維持法による農民・労働運動の弾圧

577 ~ 580

大正十四年(一九二五)四月に治安維持法の成立をみると、前年に設置されていた特別高等警察(特高)課は、さらに社会運動の取り締まりや思想の取り締まりを強化していった。

 昭和二年(一九二七)三月二十六日未明、官憲は県連合青年団第六回研究大会の開催にあたって中野の旅館および長野市内の旅館に宿泊していた六人の急進派団員を検束し、長野警察署に留置した。これは、「急進派の結束により、その言論が奇矯過激にわたる形勢が看取される」(『信毎』)との理由によって、新見特高課長と小柳長野署長との打ちあわせののち突如としておこなわれた。小柳署長の弁明では「県からの命令があったわけではない」としているが、実際には「検束は既定の計画」と藤岡警務部長はいっており、新見特高課長も一部急進派の意見は「若き純真な人々の思想を悪化せしめ、ひいては安寧秩序を紊(みだ)すが如きおそれがある」と言明していた。六人は研究大会終了後釈放された。

 翌年三月十五日、いわゆる三・一五事件がおこる。前年二月に「長野県組織テーゼ」を上条寛雄が作成し機関紙「赤色信越」を発刊、労働者・農民の革命的闘争を指導してきていたが、長野県下では治安維持法違反で七〇人が検束され、一三人が起訴、八人が処分された。

 このようななかで、日本農民組合県連合会第二回大会が翌日の十六日に屋代劇場で開催され、六百余人の参加をみている。大会の緊急動議として野上千丈が前日の事件を報告すると、官憲はこれに弾圧を加えて中止させた。さらに、十七・十八日には県連合青年団第七回研究大会が、長野中学校においてものものしい警戒のなか開催され、急進派と穏健派との対立が激化した。この大会には、各府県からも特高課員が視察にくるありさまであった。

 いっぽう農民運動では、昭和三年の秋は「平年作であったが、畑は旱害甚だしく、桑園並びに一般畑作物の減収は著しきものがある」状況で、西寺尾村・御厨村・稲里村・東福寺村・清野村などの更埴地方で小作争議が活発化していた。要求としては、桑園は三割から六割の軽減、稲作は部分的軽減、農地の坪直しがその中心であった。小作人がわの強い要求運動の結果、翌年一月に地主がわの譲歩という形で東福寺村以外は一応の解決をみている。また、寺尾村会では、村有地・学校有地の貸地にたいし小作料の二割五分引きさげを決定した。

 さらに単なる要求運動だけでなく、小作人組合がわは町村会議員選挙に出馬しその影響力を強めようとして策をこらしていた。これにたいし官憲がわも、農民協議会を解散させたり検束者を出したりと弾圧を強めていった。しかし、西寺尾村では、小作人二人が地主より多い得票で当選を果たしている。これらの動きは更埴地方全体でもくりひろげられ、東福寺村ではいっそう対立が先鋭化していた。


写真56 村会議員に小作人上位当選を報ずる信濃毎日新聞

 昭和六年五月一日、長野市で初のメーデーが山王小学校前で開かれた。「八時間労働制の実施」「上地取りあげ絶対反対」のスローガンをかかげ、約三〇〇人が参加している。警察がわは警戒を強め、岡田長野警察署長の指揮のもと百数十人の警官を動員した。メーデー参加者がデモ行進に移り西後町に来たところで、デモ隊と警官隊が衝突した。ここで全農若林忠一・長野土建組合小林光雄の二人が検束されたが、労働者がわの抗議に警察はすぐに釈放している。デモ隊は解散地の城山グラウンドまで行き、若林が「吾々(われわれ)労働者が今日かかる悲惨な境遇に叩きのめされているのは、資本主義支配階級の圧迫によるものだ。吾々は今日のメーデーの闘争のごとく、吾々の団結と戦闘的力によってこの圧迫からはね上がらなければならない」(『信毎』)と絶叫調に演説し、ほかにも数人が演説し気勢をあげた。警察はこれにも中止を命じ、しばらくにらみあいをつづけたがけっきょく解散させられた。翌七年のメーデーには、さらにきびしい統制があり全協系土建組合員などは参加が認められなかったため、デモ隊は約八〇人にすぎなかった。いったん解散して警戒が解かれたあと、善白鉄道の朝鮮人労働者(全協土建組合系)が西長野から城山公園に駆け足デモをおこない、五十余人が検束された。

 同じ年の二月には、丹波島橋の架けかえ工事の朝鮮人労働者約一〇〇人が、丹波島橋のたもと北がわに集まり大会を開いて、間組事務所までデモ行進し要求書を突きつけストライキに入った。要求は①現在の賃金を一日一円にすること、②労働時間を九時間半にし、午前七時から午後四時半迄とすること、③小間割り制度を廃止すること、④毎日仕事を与えること、⑤労働者を侮辱し暴言を吐かぬこと、⑥病気中の者にも給料を支給することの六項目であった。これは、労働時間が長く一日六〇銭と賃金も安いうえ、常に「半島人」「鮮人」などと差別されていたための行動といわれている。丹波島橋は同年十二月に竣工している。


写真57 建設中の丹波島橋(昭和7年6月20日) (間組所蔵)

 その後も、昭和八年の二・四事件、同年九月二十日の「左翼狩り」と弾圧はつづいた。こうした状況のなかで、長野警察署は陣容を強化し署員数を一三九人に増員したため、庁舎が手狭となり新築することとした。昭和九年六月二十六日、鶴賀に三階建て鉄筋コンクリート庁舎の建築に着手し、翌年五月十六日に落成し、移転した。また、松代警察署は昭和十一年廃止されようとしたが、地元の猛烈な反対にあい撤回している。逆に廃止の気運もあるなか、十四年十一月庁舎新築が決定され、資金難にあいながらも十六年五月二十一日に落成している。

 労働運動・農民運動は一時的に高揚し先鋭化された時期があったが、不況と官憲による弾圧、そして日中戦争から太平洋戦争へとつづく戦争目的遂行の国策によって、しだいに封じこめられその影を薄めていくようになる。