長野県下における共産党組織の誕生は、昭和二年(一九二七)二月二十三日である。下諏訪鶴の湯に中央派遣オルグ河合悦三の指導のもと、上条寛雄(諏訪郡永明村・現茅野市出身)・山崎稔(東筑摩郡上川手村・現明科町出身)・小林杜人(埴科郡雨宮県村・現更埴市出身)が集まり発足させた。しかし、翌年三月十五日未明、内務省の指令にもとづき共産党関係者の全国一斉検挙がおこなわれた。いわゆる三・一五事件である。県下では、小林杜人ら一三人が起訴され長野地方裁判所に送致されている。
三年四月、内務省は共産党根絶のため重要視の県に特高課増設の方針を示した。「右は過般行はれた共産党組織が深刻にして細胞組織にまで進んでゐるので、現在の警察組織を以てしてはこれを根絶すること不可能なるため(中略)、本省の保安、警務、図書の三課に人員を増加すると共に、現在特高課の設置ある府県即ち、東京、京都、大阪、愛知、神奈川、兵庫、長崎、山口、福井、長野、北海道の十一道府県の特高課にはそれぞれ増員をなし」(『県史近代』④)と、長野県は重要視県のひとつにあげられている。そして、警部二人、巡査部長一人、巡査二人の増員となり、定員は特高課長以下一八人とされた。
昭和五年六月十一日夜七時から八時のあいだに、市内県町付近の電柱に「帝国主義戦争反対」のビラが貼付されているのが発見された。十二日におこなわれる北信地方特命検閲をねらっての行動であった。長野警察署では、全市内にわたって思想的宣伝ビラの貼付配布を警戒していたが、そのまま逃走されてしまい厳重な探査をおこなった。
昭和八年二月四日、「二・四事件」がおこる。検挙者のなかに二三〇人にもおよぶ教員がいたことにより「教員赤化事件」とよばれた。しかし、実際には日本労働組合全国協議会(全協)系・全国農民組合(全農)系の活動家も大量に検挙されている(表22)。この事件は、政府・文部省による教育統制強化に意図的に利用されるとともに、これまでの県下におけるさまざまな社会運動を壊滅状態に追いこみ、戦争遂行体制の確立にも重要な役割をはたした。県特高課は『長野県社会運動史』のなかで、「其ノ検挙ハ総テヲ残サズ根底ヨリ潰滅セシメテ総決算ヲ終レルノ観アリ、二・四事件ハ本県ニ於ケル画期的検挙」とし、「昭和八年ハ本県思想運動史上ニ特筆スベキモノ」(『県史近代』⑧)と記している。長野市関連では浅川小学校・塩崎小学校・豊栄小学校・柳町小学校などで検挙者があり、二人が起訴されている。また共産党本部オルグ箱山こと田村広信は、二月二十五日に松代町内の路上で逮捕された。
九月二十日には、さらにきびしい「左翼狩り」がおこなわれた。県特高課後藤真三男課長が指揮し、同課員と長野警察署署員全員を動員している。二十日未明、印刷労働者など二四人を検挙し、長野警察署内の武道場に留置している。『信毎』によれば、「数回の弾圧と今春の二・四事件の徹底的活動で市内の左翼組織は根こそぎ壊滅にきしたと思われていたが、巧に検挙もれとなっていた全協系出版労働の一味は、執拗にも地下活動により組織拡大強化につとめていたことが暴露したもの」とあり、「昨秋ごろから地下活動により再建運動を開始し、赤旗その他党機関紙の配布網の確立、座談会開催等により組織拡大を計っていた」ための検挙であった。さらに「押収した赤旗その他の関係証拠文書が同署特高室に山積されている」ともある。検挙者のなかには、県連青前副幹事長や職業紹介地方事務局員もふくまれていた。翌年九月に開かれた治安維持法違反の公判で、起訴者五人のうち一人はその場で転向を表明している。こうして、非合法地下活動への弾圧は日に日に強められていった。
昭和六年九月満州事変勃発、同七年「五・一五事件」、同八年共産党幹部佐野・鍋山の転向声明などとつづくなかで、特高警察の組織強化がはかられるとともに、昭和十年五月「特別要視察人視察内規」の改正、翌十一年五月「思想犯保護監察法」の公布と、治安維持法体制の法律面での強化もはかられた。長野市関連の特別要視察人は、昭和十五年では「共産主義特別要視察人」甲種九人・乙種八人となっている。この時点では、「社会主義特別要視察人」「無政府主義特別要視察人」「他種特別要視察人」はあげられていない(表23)。「特要」と略称される思想犯にたいしては、特高警察の監視が常時つづけられていた。
いっぽう、治安維持法違反で検挙・起訴され執行猶予となったもの(転向者をふくむ)、刑の執行が終了したもの、仮出獄したものにたいし、「本人ヲ保護シテ更ニ罰ヲ犯スノ危険ヲ防止スル為、其ノ思想及行動ヲ観察」(『県史通史』⑨)する目的で、全国に思想犯保護監察所が設置されたが、長野市にも狐池に出張所が設置されて、そこには「転向者にこの殿堂、長野保護監察所落成」とある。また、同十年四月県特高課は思想転向者補導係をおいて、七月には転向者を会員とする「敬和会」を結成させた。役員として、理事に特高課長を、幹事に特高課員三人を就任させている。単に思想犯への監視を強化するだけにとどまらず、思想犯を転向させるねらいがあった。のちに、この敬和会は「国民精神総動員県実行会」に組織がえしていく。これには、転向した小林杜人や上条寛雄なども関係していたとされる。
農民運動では、小作争議がしだいに鎮静化していくとともに、昭和十三年の「農地調整法」の施行により小作権の強化がはかられた。このため、小作権が物権化されることとなり地主が簡単に土地を取りあげることができなくなった。翌年には「小作料統制令」が出され、小作料の引きあげの禁止、高すぎる小作料は知事によって引きさげが命令されることとなった。特高警察のきびしい取り締まりと戦争遂行のための食糧増産、そのための農民保護の政策により、農民運動は封じこめられていった。
特高警察の活動はしばしば「行き過ぎ」が指摘されるが、流言蜚語の取り締まり・言論統制の強化と、さらにきびしさを加えながら敗戦後までつづいた。