郷土教育の振興と郷土読本の作成

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郷土教育は、昭和五年(一九三〇)十二月十八日師範学校への郷土研究施設費の交付、六年一月十日「師範学校規定中改正」による地理科への「地方研究」設置を契機として、全国的に高揚をみた。その背景には、昭和初期の文部省内にあって、教育の地方化・実際化を主張する「地方研究」の思想が実業教育だけでなく普通教育でも提唱され、かつ師範教育では師範教育の充実をはかるべく「師範教育費補助」の使途が模索されていたこと、他方地域社会では地方教育会を中心に郷土誌編さん事業がおこなわれるなど「郷土研究」にたいする関心の高まりがあった。

 長野県では、早くから郷土地誌・郷土史の教科書や郷土に取材した読み物を編集使用したほか、自然を素材とする唱歌を作成したり、理科教育の観察対象を郷土に求めるなどの教育が広くおこなわれていた。


写真59 昭和12年長野市教育部会発行の郷土学習帳と指導書
(信濃教育会所蔵)

 長野市域においても、長野市小学校連合会編の『郷土地誌』(明治三十八年三月)や矢沢米三郎・渡辺敏ら信濃博物学会(明治三十五年長野博物学会を再建)の『信濃博物会誌』、『長野市史』(大正十四年)の刊行、『善光寺史』編さん開始(大正十三年)など、明治期から郷土研究がおこなわれ、教育にも生かされていた。

 昭和六年一志茂樹(昭和十一~十五年加茂小学校長)は、「郷土研究の意味と其の内容」(『信濃教育』)において郷土研究および郷土教育の意義を記している。一志は、郷土研究とは多くの具体的研究の総合・総和ではなく、また生活のみを中心として考察されるものでもなく、全体的立場から研究し、一つの生命体のようなもので、郷土の意味にふれるものでありたいとし、郷土教育振興の要因として、画一教育への反省、農村疲弊・経済行きづまりの打開策と思想善導の必要、文部省の推進などをあげている。さらに、郷土教育は、①「在るがままの其の郷土に基づいて過去に遡(さかのぼ)り将来に慮(おもんぱか)るでなくてはならない」こと、②郷土はただちに世界・国家の縮図でもなく愛郷心即愛国心でなく、郷土には独自な意味・生活があるが、偏狭な愛国心、視野の狭小化は警戒すること、③ただちに生活打開をはかる功利性におちいらず、実際生活ばかりでなく、自然・文化・歴史・郷土精神等郷土の内容を十分に認識し、生活における体験と労作を通じて人格鍛練につとめることを強調した。郷土教育の実際については、児童の郷土観念の内容と範囲を省察して実施すること、各教科に対立して郷土科を特設するのではなく、各教科を郷土に顧(かえり)みるべきこと、とくに郷土地理を郷土からとらえる傾向もあるが、もっと郷土を幅広く学習すべきこと、各教科の郷土化は精細・妥当な郷土研究にもとづく教材の採用によるべきことを求めた。また、郷土研究がおちいりやすい欠陥を指摘するとともに、幅広い郷土研究の進展を背景に、児童の心理と経験を踏まえ、郷土研究と郷土教育の関係をさぐり、郷土教育のもつ独自の性格を示した。

 長野県師範学校は、文部省交付の郷土研究施設費により、昭和六年それぞれ二〇坪の広さをもつ陳列室・書庫・研究室からなる郷土室を特設し、翌七年にはそれを郷土直観物陳列室と郷土文献書庫兼研究室からなる郷土研究室として整備した。並行して「購入、作成、採集、寄贈」などの方法により郷土直観物(地図・模型・標本・写真・絵葉書等)、郷土文献(記録・書籍・雑誌・古書画等)の収集をおこなうとともに、研究調査の用度品類の充実をはかるなど、郷土研究室を単なる陳列場としない工夫をした。このような施設の整備や学則改正の動きは、師範学校生の郷土教育にたいする関心を高めさせた。

 卒業を目前に控えた五年生松本一巳は、交友会誌『学友』に寄稿した「郷土教育について」で、郷土教育の意義を述べたのち「学校は郷土の模範的縮図でなければならぬ」とし、「青年教育者よ立て、吾等は郷土研究によりて、新なる方向を開拓しうると信ずる。突進せよ郷土教育に。諸君はすべからく郷土教育に貢献すべき任務がある。努力せよ。郷土教育へ」と決意を表明している。

 郷土教育に関する講習会・講演会は、昭和十年ころまでを中心に県下各地で開催された。長野市域では、昭和七年二月と九月に、長野県師範学校を会場として、長野県主催郷土研究講習会が開催された。講師として、昭和五年郷土教育連盟を設立した小田内通敏(地理学者、文部省嘱託)を招いたり、三沢勝衛の講演「長野県の地域の決定について」などがおこなわれたりした。長野市教育会は、昭和七、八年に、三沢勝衛を講師として郷土地理講習会を開催している。とくに七年は三回の講習会がおこなわれた。信濃教育会上水内部会では、郷土教育に関する講演・講習会はみられないが、学事視察として昭和七、八年に中島正彦(「郷土教育の実際」関西方面)、井原信(「小学校における郷土教育」中部・関東方面)が派遣されている。

 信濃教育会は、昭和六年六月、郷土研究の各分野から郷土調査要目編纂委員一一人を委嘱し、八年二月『郷土調査要目』を刊行した。これは、「地質・鉱物・地形」「気候」「植物」「動物」「歴史」「民俗」「地理」から構成されており、郷土信濃の全体的考察を目的としたが、研究の現状からして全体的な研究や要目の設定が至難であり、まず第一段階として郷土研究の全体をカバーする類別の構成にとどめたものであった。各類間で「郷土研究」観が必ずしも一致していないが、学問的系統ばかりでなく、人間生活との関連を重視したり、全県ないしは県内各地域の特質解明の鍵となる事象に着目するなど、各分野での努力があらわれている。つづいて十年三月には、さきに設置した調査委員会の報告「小学校に於ける郷土教育の実施方策」『信濃教育』五八一号を発表した。この報告は、郷土に関する学問的な調査研究が一方面に偏していることを指摘し、「郷土教育とは要するに、児童の発達程度に応じて、其郷土を総合的に理解せしむるにあり」という立場から、実際的指導法案を提示した。『郷土調査要目』を吟味、郷土教育のための調査事項を「自然的環境」「社会的環境」「歴史的環境」の三大項目に分類して各事項・要目別に尋常小学校第一学年より高等小学校第二学年にいたる配当学年案を示した。第四学年以上には週一時間の郷土科を特設し、課外時間も利用して郷土教育を実施することが構想されている。

 長野市教育部会では、十年に郷土研究委員が委嘱され、翌十一年四月三十日に『郷土学習帳取扱い上の参考』を編さんし、十二年四月四日小学校尋常科第四学年用の『郷土学習帳』を刊行した。「小学校に於ける郷土学習の目的は郷土の自然物・自然現象並に人文現象を観察し、先人の生活の蹟をうかがい以て郷土の理解と感激とを深め、郷土を愛する情を培養する」ことを意図し、第四学年の発達程度を考慮して編集されたものであった。構成は、「見はらし」「地図の見方」「私の家」「私どもの学校」「長野市(其の一)」「善光寺平」「長野市(其の二)」となっており、はじめに眺望を置き、家・学校・市と対象地域を拡大し、最後に長野市が県下第一の都市に発展した理由を考える構成になっている。巻末には年間行事表と唱歌「信濃の国」が記載されている。また、各項目は設問、ワークブック形式である。

 埴科郡松代小学校へ昭和二年に転任した小林多津衛(かつての白樺派教師)は、同十二年小諸小学校に転ずるまでのあいだ、同郡第三区職員会・埴科教育、埴科支会で地域に即した「郷土学習帳」をつくるため編集責任者として努力した。各校から委員をあげて、地理部では地理学者の三沢勝衛の指導ですすめられ、歴史部は小林が情熱的に資料の収集にあたった。そんな日々のなか、小林は下宿(大里忠一郎の子ども大里孝の家の二間を間借り)の二階で、横田(和田)英の「我母之躾」や「富岡日記」の原本を発見した。これはのちに「信濃教育会編・学習文庫」に収録され、広く世に知られることになった。

 上水内教育部会では、郷土教育にかかわるものとして、地質委員会(大正十四年設置)のほか、昭和六年資料調査委員会、八年郷土研究部門として山岳調査委員会と教育会沿革史変遷委員会が設置され、郷土研究がおこなわれた。郷土研究そのものは大正期から『野尻湖の研究』(大正三年~講師田中阿歌麿)「地質調査研究」(大正十一年~講師八木貞助)上下高井・上下水内・更級五郡連合教育会の戸隠神社研究などが継続していたが、郷土教育高揚に伴い、黒姫山斑尾山総合研究(昭和七年~)、『上水内郡古文書目録第一輯』(昭和七年大豆島、朝陽、若槻、浅川、小田切等収録)の刊行、山城研究(昭和八年栗岩英治指導)、校区内史跡研究調査(昭和八年若槻小等)など郷土研究が活発化した。


写真60 大正15年上水内教育会発行の『野尻湖の研究』 (信濃教育会所蔵)

 このような隆盛をみた郷土教育であったが、昭和十年文部省から新たな指針として、愛郷心・愛国心の涵養(かんよう)を目的とした「綜合的郷土研究に基づく郷土教育」が提示され、それに応じて十二年に「師範学校教授要目」が改正されるにおよび、愛国心育成の郷土教育へと変容していった。以後、郷土教育は、戦時下にあって国民精神の総動員が期待されるなか、観念的精神的な日本精神涵養の方途として実践されていった。