昭和八年(一九三三)二月四日から五月上旬にかけて、治安維持法違反の容疑で、日本共産党・共産青年同盟・全協・反帝同盟赤色救援会等の、県下六百余人におよぶ運動関係者が検挙され、九月十五日に新聞記事が解禁となった。長野地方検事局へ送局されたもの二三六人、起訴収監されたもの七七人(うち女三)で、これを「二・四事件」といった。この事件でもっともつよい衝撃を社会にあたえたのは、起訴されたもののうち三分の一をこえる二九人(三七・七パーセント)が教員だったことである。事件を報道した『信毎』は、九月十五日付の号外で、記事のテーマとして教員の検挙をとりあげ、「戦慄(せんりつ)!教育赤化の全貌(ぜんぼう)」の大見出しで「教育界未曾有(みぞう)の大不祥事」と訴えている。そして影響下にあった教員二〇八人、学校数六六校、送局されたもの八一人、そのうち起訴されたもの二九人(うち女一)であるとして事件の内容を伝えている。
県下の教員左翼運動は、全協一般使用人組合教労長野支部(教労)の地下組織と、新興教育同盟長野支部準備会(新教)によっておこなわれ、検束されたのは諏訪郡・上伊那郡など、県下二市一二郡の六五校(小学校五八・実業補習学校五校・中等学校二校)で一三八人(小三一・実補五・中二)、送局されたもの八三人、このなかには校長一人が含まれている。起訴されたもの二九人(肺結核死亡一)の第一審判決は全員有罪、控訴審判決(八年九月十日)で、拘束三年が一人、二年六ヵ月が三人、二年が八人の決審となった。県は行政処分をおこない、教員の退職三三人・休職三六人、校長の退職一三人・譴責(けんせき)八人などのほか、監督責任として石垣知事・視学(前視学をふくむ)も譴責となっている。関係者をもっとも多数出した諏訪郡永明小学校は一三人で、そのうち退職四人・休職四人を出し、三月末校長以下全職員を更迭(こうてつ)して、抜てきされた新職員で組織を改編した。県内で多数の関係者を出したのは、諏訪・上伊那・下伊那・南安曇郡下で、南信が多かった。
長野市と周辺の郡の学校の関係者と処分は表24のとおりで、少数ではあったが退職三人を出した。市内は柳町小学校から二人拘束されただけで、起訴されたのはそのうち一人と、現市域となっている上水内郡浅川小学校一人、更級郡塩崎小学校一人の計三人であった。行政処分は旧市内の柳町小学校二人(退一・休一)、浅川小学校一人(退)、塩崎小学校三人(退一・休二)、不問の旧埴科郡豊栄小学校一人を合わせて七人(退三・休三・不問一)となっている。
二・四事件は、全国的な社会主義思想のひろがりと、学生・青年層の先鋭化のなかで、国体の変革・私有財産制度の否認を取り締まるため、大正十四年(一九二五)四月制定された治安維持法違反の粛清によってひきおこされたのであった。とくに長野県では、進歩的な青年教師によって社会科学研究がおこなわれ、昭和六年新興教育研究所の夏期講習に参加したものを中心として、雑誌『新興教育』が購読され、メンバーの組織化がすすめられた。また、教育労働運動を推進する非合法の教労長野支部も結成されて、支局が下伊那・上伊那・諏訪・中信・長水・佐久・木曽に設けられ、児童の左翼教育・文化闘争・政治経済闘争がすすめられた。その教育活動は、「教科書を巧みに逆用し、教壇の神聖を汚辱(おじょく)す、反戦反宗教、闘争意識を注入、児童自治会の組織十余に上る」と報道された。この事件後、長野県の学校卒業者の就職採用に影響があらわれたと憂慮されている。
この事件に関係した教員の見方について、社会に警告をあたえた人が二人いる。その一人は告発した徳永検事正で、「今回の事件は、他の思想事件とは異なり、その中心が小学校教員であり、純真な児童の意識化にあった点で、その意味から重大」だが、「彼等の純情をして、かかる矯激な思想にまっしぐらにつき進めさせたといふことは、世人も静かに考えなくてはなるまい」といって、転向する教員にたいして「同情あり、理解ある態度」で迎えてほしいとよびかけた。また、岩波茂雄もまったく同感だといい、「研究心・向上心・感激性に富む」信州の教師が、マルキシズムに興味をもつのは「今日の社会情勢からみて不自然と思われない」。「法治国民として法に触れたことは遺憾だが、彼等に私心がなかったことだけは認めてやらなければならない」。教科書事件など汚職(おしょく)事件がおこっているなかで、さすが長野県には「かかる破廉恥(はれんち)罪を聞かない」。教師は「公正な批判力を養う」ことがだいじで、「徒(いたずら)に偏狭な国粋思想にとらわれて」は、「国運の進歩をさまたげる」と憂えている。
この事件は、昭和恐慌の波が繭・生糸の生産県を襲って、教員給の不払いや寄付要求、戸数割重課税問題がひきおこされ、低所得層の子弟が、学資の窮乏にあえぐ状況下でおこった思想事件であった。
事件後、県は思想対策として視学を三人増員し、教員の思想取り締まりのため校長に職員の指導統督を指示した。これは学校の主体性を重んじる長野県では、異例の行政指導であった。また、教員の養成と再教育講習のため、事件四ヵ月後の昭和八年六月十日、長野県師範学校に清明堂が設けられた。日本精神の「清き明(あ)かき心」からとった施設名で、神棚を設けて皇太神宮をまつり、皇道・日本文化などの国典九八七冊を備えて、日本文化の研究施設とし、研究規定を定め、また、清明堂講話・修身教授をおこなうこととしている。さらに、九年十一月三日、飯縄原(芋井村大字上ヶ屋字麓原)に修練道場として「洗心寮」を建設し、開墾地五町歩(約五ヘクタール)を附属地とした。春期(五月中旬~七月中旬)と秋期(九月上旬~十一月上旬)に分けて、全校各学級ごとに年三回、毎回二泊三日参寮する規定で、行務と作業をおこない、行務は国旗掲揚・遥拝・朗誦・静座・聖火の集いなどであった。信濃教育会は思想対策について、昭和八年六月の総集会で宣言を発表した。この事件は「国民教育ノ根本ヲ破壊セントスル」「痛歎措(お)ク能(あた)ハザル」ものとし、その綱領として「国体ノ大義ヲ闡明(せんめい)シ」「日本精神ノ真髄ヲ発揮スル」等の五項目をあげている。また、「本県教育ノ歴史ヲ汚損セル重大問題」だとして、七月には事件の真相を究明するため、二つの委員会を設けて「本県教育革新案」をまとめ、本会の「時局対策実現ニ関スル意見」を発表している。
これにより、大正期の信州自由主義教育は右折して、一五年戦争下の国家主義教育へ大きく転換していく。その顕著な軌跡は、後町小学校の教育にみることができる。明治から大正にかけて一五年間在任した三村安治校長(明治三七~大正六年)は、個性尊重の自由教育を盛んにおこない、つづいて守屋喜七・林八十司・高田吉人をへて、昭和三年以降は来任した松本深校長の在任一四年間に、一転して県下の代表的な国粋主義教育の先鋒となった。松本校長は武士道を教育理念とし、「師道即士道」の信念で職員を指導し、昭和五年には剣道を男子上級に課し、八年には国技の相撲を課外にとりいれて校庭に土俵を一一面増設し、男子同窓生は十五年に銅板屋根の本土俵を寄附した。そのあいだ、相撲協会の佐渡ケ嶽を講師に招き、同氏創案の『学童相撲・基本体操』を刊行(昭和十二年)して、県下の学校にも普及した。また、九年から上級の女子には薙刀(なぎなた)道を課して、薙刀修徳館長の園部ひでを講師に招いている。七年からは端午(たんご)の節句に尚武運動会を催し、鍛練教育としてラッパ隊を組織し、戸隠強歩などをおこなった。日中戦争が始まると、後町小学校は昭和十二年に「日支事変記念堂」を設けた。戦没者の遺影や遺品を飾って児童に礼拝させ、皇国精神の高揚をはかり、橋田邦彦文相の視察と表彰、知事表彰を受けている。学校行事に記念日を設けて、教育勅語・国民精神作興詔書の下賜日・明治天皇御巡幸日・陸軍記念日・海軍記念日・元寇の日や、村上義光・赤穂義士・乃木大将・殉国烈士の日には、校長の記念講話をおこなっている。また、十三年には大楠公六百年祭記念日を設けるなど特出した事例がみられた。
鍋屋田小学校の長坂利郎校長や柳町小学校の小原福治校長など、自由主義教育を操守する少数の学校もあったが、戦争の進行と拡大にともなって、政治の翼賛体制・文教政策の教学刷新によって、県下の学校は国家主義教育へ転向の道を歩むのである。
大正末年から昭和初年にかけておこった学生思想問題は、国の文教政策を動かして、昭和十年の教学刷新をむかえ、この年政府は国体明徴を声明し、十二年の日中戦争に入って国民精神総動員の運動が展開された。学生の思想運動は東大新人会(大正七年)の社会主義運動に端を発して、地方の高等学校・専門学校に波及し、大正十四年の普通選挙法成立後定められた治安維持法にたいする反対運動がおこった。治安維持法による取り締まりで、県内では松高事件が発生し、昭和五年五月十一日第一次検挙、七年七月九日第二次検挙、八年十二月四日第三次検挙がおこなわれた。いっぽう、全国的に学生の右翼団体も結成され、思想対立が激化して、文部省は六年に学生思想問題研究会を設け、七年国民精神文化研究所を創設し、九年には思想局が設置された。
国体明徴の政府の施政方針によって、文部省は昭和十年教学刷新評議会を設けて、西洋の思想・文化の弊害を取りのぞいて、国体と日本精神にもとづく教学体制を樹立し、これによって国民を錬成する方針をうちだした。これよりさき中央の国民精神文化研究所(昭和七年)につづいて、各府県に国民精神文化講習所が設けられることになって、長野県は九年十月開所した。所長は県の学務部長で事務所を学務課におき、講習会を開催して、現職教員から選んで受講させた。講習の目的は、「日本精神ニ則リ、教育上ノ諸問題ヲ研究」し、「志操ノ修養」をおこなうもので、長期講習は六週間の日程であった。第一回の長期講習会は、九年十月二十九日から十二月八日まで、善光寺の宿坊に四〇人が合宿し、師範学校の清明堂で講義があり、市内上松の昌禅寺で参禅会がおこなわれた。前年の二・四事件を反省し、わが国固有の文化・固有の精神に反する個人主義・社会主義思想を排除する趣旨で、講義は神社と祭祀、皇室と聖徳、日本仏教、社会問題、国体と国民性など皇国思想が主題で、参禅提唱は沼津大中寺の大眉老師と上條憲太郎(千葉高等園芸学校教授)が担当している。受講者はのち、長野県思想対策研究会の指導にあたるのである。
昭和十二年に設置された教育審議会によって、教育内容が全面的に検討され、十六年の国民学校制度の成立と中等学校・師範学校・大学の改革がすすめられることになる。