昭和四年(一九二九)三月五日県立の長野女子専門学校(以下、県立女専)設置が文部省から認可され、四月十一日長野市の長野高等女学校で入学式がおこなわれた。全国公立女子専門学校中、六番目の開校となった。
大正中期、女子中等教育が長野県でもさかんになり、県立高女などが増加してきた。これは第一次世界大戦による好況と中産階級の成長を反映していたが、それでもまだ小学校卒のなかでこれに学べるものは恵まれた女子であった。
大正十三年(一九二四)になると、県立の長野高女に国語科、松本高女に家事科、上田高女に裁縫科が専攻科として設置され、そのうち松本・上田の専攻科に昭和二年十二月に中等教員の無試験検定資格があたえられ、文部省から県に通牒(つうちょう)された。しかし、このとき長野高女は除外されたので、樋口長衛校長は、専攻科の上に一ヵ年の研究科の設置と中等教員の資格付与への努力を県に陳情した。
このようななかで松本市は、松本高女の志願者が多いことから松本女子師範学校(県立)に松本第二高女の併設を県にもとめた。千葉了県知事は南北信の均等政策から県立女子専門学校を長野市に設立し、それも長野高女に併設することを考えていた。長野市も松本市との対抗上から県立女専の設置に積極的であった。これまで県下の高等専門学校は上田蚕糸専門学校と松本高等学校の二校しかなく、いずれも男子校であった。松本女子師範学校は県立の中等学校である。
昭和三年九月千葉知事は県臨時教育調査会(会長知事)に女専の設置を諮問し、十二月県会は女専の設立を可決した。県は財政の都合上新設を見合わせて長野高女に併設することにし、長野高女の専攻科は廃止して生徒は女専へ引きなおし編入することで文部省の諒解をとることになった。女専の経常予算は一万八九〇六円、うち教員給は一万一三六四円とした。
文部省は県立女専を長野高女に併設することは認めず、独立した学校にするよう指導したので、県知事は慣例とはちがって設置場所の原案を長野市に限定し、昭和三年十一月長野市に経費一〇万円の寄付をもとめてきた。長野市会が同月二十四日に開かれ、丸山弁三郎市長が昭和四年度三万円、五年度三万五〇〇〇円、六年度三万五〇〇〇円、計一〇万円を支出して寄付することを提案し決定した。同時に長野市は県立女専設置のために九人の女専対策委員を決定し、南北対立意識の高まる県会対策に備えた。これまでと同様、地元が敷地・建物・諸経費について応分の寄付をする慣例があり、長野市は県営図書館の負担や折からの不況などで苦しい財政ではあったが、議決したのであった。こうして同年十二月二十六日の県会で、県立女専建築費として一〇万円が可決され、昭和四年三月五日に文部大臣の設置認可となった。
最初、教職員・生徒は長野高女内の教室を使用したが、長野市内の数ヵ所の候補地から長野市相之木付近を選定した。四年十一月県学務課中村属と地元長野市の丸山市長と会議し、四人の市会議員が立ち会っている。これから八〇〇〇坪の土地などを寄付金等でまかない昭和五年度から工事にかかり、新設された校舎に移ったのは同六年十月十一日のことで、十一月二十一日落成式がおこなわれている。
こうして紆余曲折(うよきょくせつ)を経て女専は誕生したが、昭和恐慌にさしかかるきびしい状況のなかであった。比較的生活に恵まれた女生徒が入学してきたが、それでも退学せざるをえないものもいた。昭和五年本科(国文科)卒業生に小学校正教員試験検定資格が、同六年には研究科卒業生に国語科中等教員無試験検定資格があたえられたが、検定試験の成績は全国的にみてもすぐれていた。
昭和十年本科に家事裁縫科が付設された。十五年九月の国の教育審議会答申は、女子の特性を顧慮して婦徳の涵養(かんよう)に留意した女子専門学校の刷新を強調し、鈴木登県知事は十一月の通常県会で国文科の廃止と家政科の新設、女専に長野第二高女の新設を提案した(表25)。鈴木知事は「現下ノ国情ニ照シ」として、女専の組織変更と第二高女の新設等の経費は地元の寄付によるので県費の支出負担にはならないと説明した。この知事提案にたいし南信の市瀬繁県議(下伊那)は、学科変更ではなく女専の廃止の意思はないかと迫り、知事は国家の要求に即応できる知性・徳性の高い妻として母としての立派な女性を教育する、と廃止論を退けた。また生徒の保護者の一部からは、文科廃止は信州が他県に誇ることのできる唯一の文化的存在を無視することになると反対し、長野市も国文科に家政科を併置することをもっとも希望するとしていた。
経費の問題と関係して、国文科志望者は三年までは三〇人内外の入学者があっても、四年(研究科)になると七、八人に減るという実情があり、県では希望者の多い家政科に変えるという現実策をとったので両科併設は無理と判断された(『信毎』)。
昭和十六年四月学則改正によって文科の募集を停止し家政科を新設するにいたった。この年十二月太平洋戦争が開始されている。昭和十七年九月二十八日文科の卒業式がおこなわれたが(高専校の修学年限六ヵ月短縮)、同十八年九月には家政科第一回、文科研究科最後の卒業式がおこなわれ、十九年四月には学則改正により家政科が保健科に改組された。
こうして戦時下で、女専のリベラルな教育も変わり、戦争にのみこまれていくが、設立からの歴史のなかで長野市がその存続と発展に大きくかかわっており、生徒もやはり長野市とその周辺の高女卒が多かったのである。
さかのぼって昭和十六年度予算案審議の県会において、鈴木知事は予算案の説明で、長野高等女学校が学級増加の余地がないので、入学緩和のため、女学校を新設するほかないと述べて、県立長野女専に長野第二高等女学校を併設することを提案した。長野市およびその周辺における女学校入学志願者の激増がもたらした問題であった。このとき知事は、同時に上田・篠ノ井・木曽の各高女で一学級増、伊那高女で二学級増を提案しているが、長野第二高女にはまず建設費七五〇〇余円を計上した。
昭和十六年四月一日長野第二高女は県立女専に併設され、四月十一日開校式をおこなった。最初の入学生は二学級で一〇六人であった。校長は樋口長衛が女専と兼任し、太田勇愛教諭以下の専任も女専からの出向が多く、三人の教授は第二高女教授嘱託となった。
昭和二十二年四月には新学制のスタートにより、この第二高女に新制中学が併設され、つづいて二十三年四月には女専に長野東高校が併設される。しかし、翌二十四年四月には両高校とも他の高校と統合されていく。