不況下の実業補習学校と青年訓練所の併設

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昭和四年(一九二九)十月ニューヨーク株式市場の大暴落に始まる世界恐慌は、蚕業県を直撃して五年六月には春蚕の繭値が暴落し、以後県下の農村では教員給を主とする教育費の削減問題が各地におこった。大正期に拡充された県下の実業補習教育は、経済危機に直面して農村更生の中堅青年育成という重い課題をになうこととなった。県と信濃教育会は時局問題として農村教育をとりあげ、その理念に農本思想をとりいれた。満州事変後国粋思想による青年の修練道場や村塾運動もおこなわれた。泉野実業補習学校(校長藤森省吾)のような小学校と一貫教育の通年制や朝学・昼学を採用した農村の人づくりをめざすところや、地域の実業補習学校を統合して中等程度化した組合立実科中等学校を設けた小県郡東部(校長山浦政)や諏訪南部(校長小尾喜作)実科中等学校などの新しい動きも各地に出現した。

 昭和期の市内の実業補習学校のなかで、三輪(竹内宣守校長)の女子教育の活動が注目された。三輪校は明治三十五年から同窓会(大正七年女子、昭和十二年美和同窓会)を設け、補習の父兄懇談会をおこなって振興につとめ、農業実習・遠足・キャンプなど小学校高学年と合同しておこなった。とりわけ女子の作法や家事・裁縫・手芸の教育で成果をあげ、補習展覧会を開催したり、また、県実業教員養成所や県立女子専門学校の生徒の授業参観などの実習校となっていた。同校は、いわゆる花嫁学校の役割も果たして地域の要求にこたえ、学区外の市内・上水内郡・下水内郡などからの入学希望者があったといい、名声は諏訪郡高島裁縫専修学校とならぶといわれた。


写真65 昭和11年三輪実業補習学校生徒の茶道実習 (竹内正安所蔵)

 大正末期の国内には、学生の社会科学研究や青年団の思想問題がおこり、中国東北部に山東出兵の動きがおこる前年大正十五年四月二十日青年訓練所令が公布され、文部省は青年訓練所規程を定めて、小学校卒業の一六歳から丁年の二〇歳まで四年間、男子に青年訓練をおこなう機関が新設されることとなった。県は五月二十一日青年訓練所準則を定め、六月二十六日設置要項を示して、公立青年訓練所は実業補習学校か小学校に併置することを原則として、実業補習学校を青年訓練所に充当するか、単独の青年訓練所を設置するよう訓令した。

 これよりさき大正十四年四月、中等学校以上の学生に現役将校が教練を指導する陸軍現役将校学校配属令が公布されており、働く青少年を対象とした青年訓練所とともに兵役上の特典があたえられていた。すべての青年に軍事教練を課すこの政策は、進歩的な青年の抵抗するところとなった。青年会のなかには、軍事教練反対運動をおこし、県内では下伊那郡鼎(かなえ)村青年会や県連合青年会が青年訓練所の設置に反対したが、大正十五年七月一日県下一斉に青年訓練所が開設され、翌昭和二年全市町村と工場などに三九〇校が設置された。訓練所は「青年ノ心身ヲ鍛練シ国民タル資質ノ向上」を目的とし、四年の訓練期間に修身・公民科一〇〇時、教練は全課程の半分にあたる四〇〇時、普通学科(国語・数学・歴史・地理・理科と音楽加設)二〇〇時、職業科一〇〇時以上履修させるもので、青年訓練手帳に記録し、査閲をうけたものには入営期間が短縮される規定になっていた。

 長野市は訓練所を付設する小学校が、大正十五年四月に一校制から多校制に移行した直後で、実業補習学校は一校制の後町と新市部(大正十二年七月一日合併)の芹田・古牧・三輪・吉田の五校があった。そこで実業補習学校を置かない城山尋常小学校に独立の城山青年訓練所を設け、青年訓練所充当実業補習学校を後町・芹田・古牧・三輪・吉田各尋常高等小学校に併置し、こうして訓練所が六ヵ所に開設されることになった。市はあらかじめ六月に青年訓練所要項を配布して、六校の位置と募集区域、訓練所の編成を示し、七月一日の入所と入所願の書式・手続きを知らせて訓練生を募集した。実業補習学校のない城山に訓練所を設けたのは、旧市内の生徒全員を後町校舎の実業補習学校に収容できないためであって、訓練所の一年次生徒は後町へ、二・三・四年次を城山へ入所させるしくみであった。入所願は計二二三人で、一年次(不詳)人(後町)、城山の二年次七四人、三年次八五人、四年次六四人であった。開所式は七月一日におこなわれ、詔書の奉読があった。青年訓練所規則では、毎年の学期は一月から十二月までで、入所式は一日実施され、訓練はつぎのような計画であった。

 学科 九月~十一月  毎日午後七時~九時(二時間)

 教練 七月~九月   毎日曜日 午前四時間

    十月~十二月中旬 毎日曜・水曜 午前二時間

 生徒は青年訓練手帳を所持して、修業歴を記録するのである。訓練項目(城山訓練所の例)はつぎのようであった。


 教練査閲は毎年度おこなわれ、兵役の期間短縮の条件となっていた。査閲官が第十四師団松本五十連隊から派遣され、市長・学務課長・在郷軍人会長と県関係者などが立ちあった。査閲は書類(出席簿・訓練細目・訓練日案・訓練日誌・青年訓練手帳)の点検と、教練(整列閲兵・停止皆動作・行進間動作・分隊教練・分列式など)の査閲で、終了後査閲官の講評がおこなわれた。

 長野市内の青年訓練所は、城山青年訓練所に入所した最後の四年次生が卒業して、同校が昭和四年(一九二九)三月三十一日廃止され、四月一日新しく加茂青年訓練所充当実業補習学校が発足(昭和十一年三月廃止)して、単独校がなくなり(県内単独校一六校)、市内六校はみな実業補習学校の充当校となった。

 現市域の町村にはそれぞれ充当校があった。訓練課程はみな同じで、行事も毎年教練査閲が近隣の数校合同でおこなわれた。簡閲点呼の合同見学、市内と上水内平坦部の青訓合同野外演習(飯縄原)や郡の合同演習、北信中等学校連合兵式演習と長野市中央通りの分列式への参加(昭和)など、また、五日間にわたる十四師団対抗演習(大正十五年若槻方面)の見学、あるいは高崎市乗附練兵場でおこなわれた天皇御親閲(大正九年)に代表が出席したほか、各校の露営や武運長久を祈願する行軍などの軍事教育を中心としたものが多かった。

 青年訓練所の職員は、主事(小学校長兼務)と指導員で、指導員は城山訓練所発足当初、学科八人(城山四・加茂二、長商一・市吏員一)、教練一二人(在郷軍人)で多数であったが、合わせて数人の学校が一般で、県下の平均は一校あたり、学科・教練とも各三人台であった。

 青年訓練所の運営上もっとも大きな問題であったのは、入所者と出席者が少ないことであった。城山では初年度の終了式(十二月十八日)に修了証を授与されたものが二二人(入所願二二三人)で一割にすぎず、当年度の始業前に七週間の補充訓練を四〇時間おこない、次年度も補充して修了者が八六人となった。大豆島では不作の昭和二年の出席が不良で、三年には入所者が少数のため訓練所を一時休止とし、予算も削除したが、県の勧告で学務委員会が奔走して復活された。なかには三輪訓練所のような入所率八〇パーセント前後の高率のところもあったが、県下の入所率と入所者の修了率は、左記のように半数にも達しなかった。


 大正十五年に二万三〇〇〇人の生徒は、昭和六年前後には二万人以下に低下している。県は五年十一月市町村長にたいして青年訓練所の振興を通達し、「未ダ其ノ入所出席歩合共ニ五十パーセント内外ナルハ頗(すこぶ)ル遺憾」とし、これに先立って同月松本連隊区司令官から青訓後援会の設立を市町村長に要請されたことに関連して、訓練所の援助・奨励に努めるよう通牒(つうちょう)している。青年訓練所の振興と普及徹底の役目をもつ後援会が設けられた三輪訓練所後援会の活動をみると、該当者の調査と入所の勧誘、出席者の督励、設備の助成と経費の寄付のほか、査閲や特別行軍への参列など、振興に寄与して、入所や訓練の好成績をあげている。

 小学校に付設された実業補習学校と青年訓練所という二つの青年教育機関は、施設は小学校と共用したが、経済不況下の町村の負担と勤労青年に過重な課業を強いることとなって、青年訓練所は開所以来不振をつづけた。県はその振興のため内容整備にあたる指導者講習会(第一回大正十五年九月松本女師・松本五十連隊)、(第二回昭和五年十一月十二日県下九会場)を開き、標準学則(昭和二年一月)を示し、とくに入所・出席督励の通達(昭和二年一月)や標準入所歩合(昭和九年九月)・入所出席歩合(昭和十年一月)を示し、後援会の設立(昭和五年松本連隊区司令官)に関する青訓振興の通牒(昭和五年)と青訓奨励規程の制定(昭和九年二月)をおこない、国庫も昭和九年六月臨時補助金を交付した。しかし、実業補習学校のように市町村の生活と密着した教育機関ではなく、県民の積極的な支持は得られなかった。政府は二つの教育機関の二重性を解消するため、十年四月「青年学校令」を制定して両者の統合をはかり、青年訓練所は九年間で幕を閉じたのである。


写真66 昭和9年の更府青年訓練所生徒
(『写真にみる長野のあゆみ』より)