明治中ごろから大正期まで栄えた塾的形態の信濃裁縫女学校や中野塾等が、昭和初年までに相ついで姿を消した。信濃裁縫女学校は南佐久郡中込町出身の土屋寅太郎(寅太とも)夫妻が塾として開き、昭和三年(一九二八)廃校までに三二年間の歴史をもっていたが、この時期の不況により経営が不振となり廃校した。これらにかわって私立学校として成立したのが、長野専修簿記学校や長野和洋裁縫女学校、長野文化学院など表26にみるような諸学校である。しかし、これらの諸学校にはのちの専修学校や各種学校に相当するものもふくまれていた。
長野専修簿記学校は、大正十五年(一九二六)三月長野市緑町に黒木勝が私立学校として珠算・簿記を目的に創立したもので、黒木が校長と教諭を兼任した。資料にみられるのは昭和三年四月からであるが、それ以前に前身としてすでにあったものであろう。昭和十一年の教員数は四人、生徒数は本科・別科合わせて四五人で、この学校は戦後まで場所も経営者もかわることなくつづいた。
長野和洋裁縫女学校は、昭和四年四月長野市南石堂町に開校した。初代校長は原山芳菊である。原山はこれより先、明治四十二年(一九〇九)から九年間上水内郡鬼無里小学校で教鞭(きょうべん)をとっていたが辞してのち、長野市千歳町に「シンガーミシン裁縫刺繍(ししゅう)教習所」を開いていた。大正十四年にはこの教習所を長野市南県町の旅館経営「自彊館(じきょうかん)」の一部を借りて移転した。原山は、このころ「山田式洋服裁断法」という明治九年に東京の山田鶴吉が発行した本を用いて指導していた。これが長野和洋裁縫女学校の前身となるものである。正規に校名が『長野市勢要覧』や『長野県学事関係職員録』等に記載されるのは昭和四年度からである。これらの記載によれば、入学資格は小学校高等科卒業程度で、教科は公民、国語、数学、博物、家事、音楽、裁縫、手芸であった。昭和六年の教員数は一一人、生徒数は本科・師範科・研究科あわせて五〇人となっている。
昭和八年からは小山海太郎が校長となり、翌九年から刈間(小林)倭文(しずり)が教諭で勤務する。この年三月末に校舎を中御所に移転したが、そのさい県への移転届けがおくれたため、五月に県は責任者を県庁に招致しその結果によっては閉校命令も決定するというトラブルもあった(『信毎』)。
昭和十年には付属託児所を設置して保母三人を置き、刈間倭文が本校教諭と託児所長を兼任した。昭和十一年校名を長野実践女学校と改称し、十三年四月には一学級四〇人の商業科と本科二学級を設置して修業年限を二ヵ年とした。十四年長野市妻科の県庁前八幡川左岸に校舎を移転、十五年四月には入学試験実施規定をつくりこの年から入学試験を実施した。さらに十六年には長野高等実践女学校と改称し、翌十七年校舎を長野市岡田町の県庁南八幡川右岸に移転した。
十八年には戦時下不要不急の私学閉鎖命令が出されたが、二度の調査により存続の必要性が認められた。
戦後は長野高等家政学校からさらに長野女子高等学校と改称されていく。
長野文化学院は、昭和六年四月十五日長野市上千歳町に開校した。ただし当時県へ提出した「概況報告書」によれば、設立認可は同年六月五日となっている。創立者および学院長は尾崎はつである。尾崎は松本女子師範学校で教鞭をとっていたが、自身が理想とする女子教育を志し職を辞してこの学院を創立した。校舎は市内呉服店の別荘二階を借り受け教室とした。入学資格は高等女学校および実科高等女学校を卒業したものとし、学科課程、修業年限等は前記の概況報告によればつぎのようである。
本科 一部一ヵ年 二部二学期(一学期は六ヵ月)
研究科 一部一ヵ年 二部二学期(一学期は六ヵ月)
予科 二ヵ年
随意科 和洋裁縫専修部 とくに修業年限はなく随時教授する
学科課程は、本科・研究科ともに、修身、国語、家事、裁縫、手芸、選択で、予科は数学が加わっている。一週三五時間、うち裁縫が二二~二三時間と三科ともに多くなっている。定員は各科三〇人、授業料は各科月額二円五〇銭、入学金二円であった。
昭和六年開校当時の教員数は六人、生徒数は本科・研究科・予科・随意科あわせて五〇人であった。その後は年々生徒数が増加し昭和十年以降は八〇人以上となり校舎がせまくなった。そこで昭和十六年には校舎を南千歳町に新築移転するとともに、校名を長野女子文化学院と改称し、さらに付属みどり保育園を設置した。保育園には保母二人を置き、園長は尾崎が本校の学院長と兼任した。
終戦近い昭和十九年には一時軍服の縫製工場になったが、戦後昭和二十三年からは新学制により六・三・三制に組みこまれていく。
善光寺向上学院は、大正十四年八月善光寺長養院の経営として創立された。主として上級学校への受験生を対象にしたが、昼間諸官庁や商店に勤めるもののため夜間三時間の授業もあった(『信毎』)。昭和八年の記録(『長野市勢要覧』)では中等科と高等科があり教員数は四人、生徒数は計一〇二人である。昭和十七年以降は閉校したのか、記録にみえなくなる。
信濃木工学校は、大正十五年五月から記録にみえ、更級郡中津村(川中島町)に創立され、木工目的の名物校として知られた学校で、同年の教員数は男一三人であった。しかし、開校間もなく同年秋暴風雨で被害をうけ、経費面から一時苦況におちいったが、関係者の努力で経営をつづけ、昭和二年三月創始以来第一回の卒業生九人をだした。このとき当初からの目的として卒業生は全員新設三年程度の高等科に編入させることになり、優良教員の増加をはかるとともに、特殊な学校として維持金一万円の寄付金募集が県から認可された。昭和三年から五年まで一時休校したのか県の私立学校関係資料に記録がない。昭和六年四月には校舎を篠ノ井町に移し、さらに同八年四月からは信濃建築学校と改称し、木工のほか建築を加えた。校長は木工学校からつづいて小出一男でかわりがない。その後昭和十六年まで記録があるがその後は閉校したのか不明である。
長野簿記学校は、昭和十八年長野市西長野町(現信大教育学部前)に珠算・簿記を目的に創立された。それ以前に市内田町に前身がおかれていたが資料がなく不明である。経営者は前身からつづいて古沢静歩(本名庫士)である。教員は山口菊十郎、乙部泉三郎など男六人と女一人がいた。戦後昭和二十一年に長野簿記女学校と改称される。