昭和四年(一九二九)におこった世界恐慌は日本経済を直撃し、繭価をはじめとする農産物価格の暴落によって北信一帯の農村経済をも不況のどん底におとしいれ、長野市および周辺部の町村にも大きな影響をあたえた。
同年三月、後町尋常高等小学校では高等科七三九人のうち月額六〇銭の授業料が納められないものと滞納がちなものを合わせると、二四五人(三三パーセント)の多数にのぼった。芹田、古牧、吉田の各校でも、高等科合計一八五人のうち、滞納総額が三三五円五〇銭と多額にのぼった。また、埴科郡豊栄村尋常高等小学校では、月額三〇銭の授業料が納められないことなどで、学年途中で退学していくものが毎年数人にのぼり、なかでも女子が目だった。
長野市実科高等女学校(現皐月高校)では本科一六〇人のうち三七人(二三パーセント)の授業料滞納者があり三輪の通年女子実業補習学校では、第一種生六七人中四四人(六六パーセント)の生徒が月額一円の授業料を納めることができなかった。町立松代高等女学校(現松代高校)では、昭和五年度入学する生徒の応募者が少なかったため、窮余の策として町議会は、それまで月額三円の授業料を一気に六分の一の五〇銭とし、新年度から実施したので、県学務課では影響を心配したという。
こうした各学校にみられた授業料滞納とならんで、市の調査によると、たとえば、両親がなく家で小さな妹を世話しなければならないうえに、貧しさのあまり学校にいかれないというような児童が十五、六人おり、また、寒い冬を着物一枚で登校したり、昼の弁当をもてないような児童が、昭和四年中に一二〇人にものぼっていたことが分かった。そこで市では学級担任を通じ、新学期四月から六月まで連続して学校を休んでいる市内貧困児童の実態を再調査したところ、昼の弁当のない児童が一五人、雨傘のない児童が三五人、着物のない児童が一四人で、計六四人への支給総額は四〇〇円にのぼった。
文部省でも、昭和五年、欠食児童の実態調査をおこなったが、当時小学校児童男女合計一〇〇〇万人のうち、二六七万人の児童が栄養不良であると報じられ(『信毎』)、これらの貧困児童にたいして国費の一部を補助した給食を全国で実施することとなった。
昭和七年九月、文部省から貧困児童の給食費補助金を受けとった県は、各市町村長を通じて給食を要する児童数を徹底調査した結果、弁当のない児童が県下で四五〇〇人で、なお欠食児童は、増加の一途をたどっていた。救護対象児童数は、東信と中・南信に多かったが、上水内郡下では一六九人、長野市が一四〇人となっていた。
こうした深刻さを増す不況は、租税滞納者の急増によって市町村財政を極度に悪化させ、小学校教員を中心とした給与未払い問題となって、事態は新たな局面を迎えることとなる。すでに昭和四年当初から教員給が支払えない各地の農村などでも小学校教員給の緊縮が問題となってきていた。
上水内郡各町村会においては、同年一月十三日、郡内町村長会を開催し、一斉に整理節約をおこなって、予算減額をする旨の申しあわせをし、歩調をそろえて四年度予算の執行ならびに五年度の予算編成を断行する決定をした。翌十四日には郡内役場事務主任会において具体案を練った結果、すでに県からの指示にしたがって一五パーセントを標準にして四年度執行予算から整理節約をおこなうこととなった。この整理節約の筆頭格にあがったのが、財政支出のなかでもっとも経費がかかっているとされた小学校教員の給与であり、その教員給与の昇給を一時見あわせるとともに教育予算の減額により村税軽減を申しあわせている。
教員給の減俸問題は、予算編成期を迎えた町村財政の最大課題となっていた。松代町では四年一月七日から開催されていた町議会において、予算額総計一一万二五一八円に削減されたなかで、小学校費が三万二三二八円であるのにたいし、二二〇〇円(六・八パーセント)を減額、新年度からは二学級を減らすとともに、教員俸給を一人あたり月額約二円を減給し、小学校長は、寄附の名目で年額四八〇円も減給されることとなった。この教員給与の引き下げ問題をめぐって町議会内部において、減給に反対する校長派と減給に賛成の反校長派の反目がつづいていたが、しだいに町民間の対立にまでひろがり、ついに町民有志の呼びかけによって町民大会を開催するところまで発展し、警察が一時警戒態勢をとるほどになった。このようにして新聞紙上には、連日のように小学校教員の給与緊縮に関する記事が報じられていた。
長野市では、教員の給与が問題になりはじめていた昭和四年三月には、教育問題の実地視察を名目に年度末の学校訪問を実施した。同年十一月には長野・松本・上田の三市が合同会議を開催し、教育費削減について協議し、十二月になって、教員の給与については現状のままでと申しあわせた。
更級町村会では、昭和五年七月三日に開催された県町村長会において、教員給与減額問題が論議の中心になることを予測し、六月三十日に篠ノ井町役場に参集し、①財界不況に順応し、教員給を減額するよう法規の改正を上申する、②現在支給の小学校教員給は、大正八年(一九一九)財界の好況時代に規定されたものなので、このさい教員給二割減は時代に相応する措置であると信じ、ここに規定を改正することを上申するものである、と決議し当日他郡市の先手を打って協議事項として提出することとなった。
また、埴科郡町村長会では、同年七月二日、屋代高等女学校講堂において、教員給減額問題について意見交換をおこない、四月から松代町で実施している給与一割減にならって、拝みたおし的に学校がわに相当の寄附を求めること、町村吏員や各種団体の名誉職も自発的に給与旅費等の補助の一部もしくは全額を減額するよう、翌三日開催される県招集の県町村長会へ緊急提案することを申しあわせた。
こうした教育費削減の動きを察知した各地の校長会では、当局をけん制する動きを見せている。埴科郡町村長会による拝みたおし的な寄附申し出の決議にたいして、埴科郡校長会は、「教育の精華を損なう減給には断固反対」などと強硬な反対姿勢をとって、町村長会と校長会の対立はしばらくつづいた。同年八月に入って、上高井校長会が教員の給与を自発的に寄附することに踏みきって間もなく、埴科校長会でも態度を軟化させて町村長会がわの申し出を認め、校長を先頭にした「寄附採納願」を提出することとなった。
教員による「寄附採納願」の例を更級郡青木島村大塚尋常高等小学校(現青木島小学校)でみると、昭和五年十月八日付で青木島村長あてに提出され、教員一六人中、校長一二〇円を最高に、九〇円、六五円、六〇円、五五円、五〇円、四五円、四〇円、三五円(なかに複数あり)、計六〇〇円であった。
こうして教員減給問題は、「寄附採納」という形となったが、小学校教員にとっては実質的な給与の引き下げには違いがなかったわけで、不況にあえぐ町村財政を理解しつつも、矛盾を感じる教員もあった。