県連合青年団の結成と動向

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県下の郡市連合青年会(略称郡市連青)は、明治四十年代から大正十年まで(一九〇七~二一)の十余年間に三市一六郡に結成され、全郡市の設立をみて十年十一月に長野県連合青年団(略称県連青)が発足した。郡連青最初の設立は、『信毎』の報道記事では明治四十四年の更級郡(『更級時報第二四号』でも同四十四年十一月創立としている)とし、『長野県連合青年団史』は四十一年の埴科郡となっている。『青年団史』には、県下の郡市連合青年会の結成が表27のように掲載されている。県下の三市一六郡に連合青年会が結成されて、傘下の青年会数は大正六年(一九一七)には一三郡一〇三七団体、十一年の団数は統合がすすんで三九八団、団員数は一〇万五〇〇〇人で、長野市は二三五〇人であった。なお、団長は、正団員二一〇人、小学校長七五人、村長五六人、名望家二二人、役場吏員一二人、教員七人、その他で、この時点で正団員以外の会長が四六パーセントを占めていた。


表27 郡市・県連合青年団の結成

 青年団活動の県下の状況は、講演会・見学視察旅行・巡回文庫などの修養事業と、登山・遠足・体育会などのスポーツと、社会事業として就学奨励・村勢統計・擬国会擬村会の開催・貯蓄奨励・産業品評会・共同販売・道路標識・兵士送迎・遺族慰問などで、行政がわは青年会が村政補助機関として、将来の地方自治担当の訓練を指導していたのである。なお、会名に「連合」の二字を省いて「郡青年会」としたものに下高井・上高井・下伊那郡があり、青年会名を早く青年「団」とするものが南佐久・北佐久郡(大正四年)と小県郡(大正九年)にあって、大正十年の「長野県連合青年団」以後ほかの郡市もしだいに名称を「青年団」に改めている。長野県連合青年団は、全郡市の青年団の結成が完了した大正十年に発足して、県の肝煎りで、事前に八月五日県連合青年大会が開かれ、県連合組織への機運を醸成し、十月十三日に長野県庁へ各郡市連合青年会長が出席して、創立委員会を開催した。そして、十一月二十日長野市蔵春閣で開かれた第一回代議員会で団則(一四条)を審議し、役員選挙をおこなった。団長には山本慎平(更級)、副団長に宮下友雄(長野)と二木洵(東筑摩)が選出された。発足後、最初問題となったのは、団員の年齢制限問題であった。当時県下の青年団の組織は、最低一二歳から五〇歳まであって、一五歳から三〇歳がもっとも多く、下伊那郡では二五歳制をとったが、年齢制限は為政者の指揮する官制青年団を脱皮する意図からであった。県連青の年齢制限は、青年会が学校教育の完成と修養練磨の団体であるという理由で年齢制限をめざし、県下の青年会の会員の「年齢一致の決議」をおこなっている。まだ団長に青年の正団員以外の小学校長・村長などが就任しているところが多くあり、団長問題は青年団自主化の進度を示すものとして団員互選へとすすめている。


写真69 上水内郡連合青年団は不況のなかで電灯電力料金値下げを要求した

 県連合青年団は研究大会を例年開催したが、下伊那郡が青年訓練所反対運動をとおして軍国主義に対抗し、階級闘争を主張して県警察の大会臨監・検挙事件が続出し、内部は急進派と保守派が対立して、脱退するなど、類似の郡も出てきた。長野市連合青年会も大正十四年十二月二十二日県連青脱退の声明を出し、『信毎』は県下の動きにたいして「県連合青年会 真の統一を産み悩み」と評論している。


写真70 昭和3年発行の長野市連合青年会誌『聖都』

 県連青の地区別活動では、北信の一市六郡(長野・上水・下水・上高・下高・更級・埴科)は、研究大会を昭和五年(一九三〇)十一月三十日、須坂中学校で八〇〇人が出席して開催した。県警察本部は、思想問題取り締まり方針をもって県研究大会を監視し、検束もおこなったが、北信研究大会では須坂警察署が警戒にあたった。第一回大会では、研究題が自主的青年団の確立、農村の疲弊と教員・吏員の減俸、社会運動と青年団の立場、現代社会の欠陥、プロレタリアの邁進(まいしん)、産児制限等であった。

 満州事変直後の第二回大会(昭和六年十二月六日県立図書館・六百人集会)では、研究題が経済恐慌下の無産階級の闘争と国家主義論、満州事変の権益擁護論と反戦論の対立の尖鋭化、帝国主義戦争反対などの意見が激突して、共産主義思想が北信にも濃厚に表面化してきた。当日早朝宿舎で尖鋭分子の検束がおこなわれて、下水内郡・上水内郡から数人の会員が検挙されている。研究大会では、臨検の警官から「弁士注意」の制止の指示があって、思想統制の強化が始まっていた。

 県連合青年団の検束は、昭和二年三月の中野町開催の研究大会で、急進派幹部八人の検挙があり、三年三月の長野大会には五〇人の私服刑事が臨監、『連合青年団報』の検閲がおこなわれた。五年には県連青にたいする県費補助打ちきりの情報にたいして、『信毎』は「自主的青年団か奴隷的青年団か」と題して論評している。満州事変後県は六年十二月の県会答弁で、「左傾と反戦」思想を取り締まる方針を表明した。日中戦争に入って翌十三年青年団令が公布されて、県下一〇万人の青年団員は、国防の役割を担うこととなった。さらに十五年十二月には、大政翼賛会が発足して長野県支部が結成され、十六年二月十四日には、新しく長野県青少年団の結団式が県立長野図書館でおこなわれ、県と郡市の連合青年団は自然消滅となり、太平洋戦争勃発(ぼっぱつ)の翌十七年一月県立長野図書館で団旗樹立式と郡市団旗の授与式がおこなわれ、そののち、市内行進が実施された。県下の団員は三五万人で、貯蓄実践強調運動・生産増強に協力し、勤労動員と軍事招集が強化された。なお、十七年五月五日県翼賛壮年団が結団式をあげ、国家総動員の決戦体制にはいった。