愛国婦人会と女子青年団の動向

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愛国婦人会長野県支部(大正十五年六月に長野支部を改称)は、昭和四年(一九二九)十月に支部として「時局に省み、国体観念の明徴・民心の作興・財政経済の整理緊縮・勤倹力行を最大急務とする」という内容の目標をすえ、具体的九項目の申しあわせをした。そして、出征軍人や戦死戦傷病死者遺家族の救護救済活動、児童健康相談所設置や健康児童審査会の実施、巡回産婆、会員の教養・育児知識の講演会、活動写真会、軍隊慰問などを盛んにおこなった。各町村の愛国婦人会では、それぞれの実情に応じて活動をしたが、満州事変以後は兵士への慰問袋や慰問文の作成発送・恤兵(じゅっぺい)金の送金、日中戦争からは戦死遺家族の慰問・生活扶助、軍用飛行機愛国信州婦人号献納(十四・十五年)のための献金、愛国献金、満州移民後援、乳幼児愛護運動、軍人などを講師とした講演会や講習会などに力が入れられ、防空演習にも積極的に参加するようになっていった。


写真71 愛国婦人会長野支部事務所および授産所

 また、県内各地の農村地帯を中心に、愛国婦人会の費用で農繁期の託児所を開設した。現長野市域では七年塩崎村(一〇日間)、九年共和村(三〇日間)、十年・十五年青木島村(三五日間・二二日間)、十五年中津村(三二日間)、保科村(二〇日間)、長沼村(一五日間)、若槻村(六七日間)などがある。しかし、経済不況の年には会費未納が多くなり、愛国婦人会の活動にしばしば支障をきたすことがあった。

 愛国婦人会長野市幹事部(昭和十年から分会と改称)の昭和四年の活動をみると、健康児童審査会や育児に関する活動写真講演会を開き、六月には児童愛護週間も実施して、健康な児童の育成につとめた。また、実施した乳幼児の児童健康相談には、三一〇人(男一七一・女一三九)が訪れている。巡回産婆を常置しての妊産婦指導(大正十二年から毎年実施)は三九人おこない、うち一九人の出産処置をした。さらに貧しい家庭の妊産婦には、特別に助産診療と産具の無料配給(三年から九年まで実施)をした。また、翌五年には会の趣旨普及のための「愛国劇」を三回上演している。そのほか会員のために講演会や不用品交換会も開いた(『愛国婦人会長野県支部沿革誌』)。

 昭和十二年十月十日に長野市域を中心にした婦人によって、国防婦人会長野支部の発会式がおこなわれ、翌年五月十一日には国防婦人会上水内支部の発会式もおこなわれた。愛国婦人会と活動の重なる国防婦人会が発足し、町村によっては会員の奪いあいや両会を兼ねるものもでてきたので、十三年七月愛国婦人会長野分会は、国防婦人会と親和提携するよう会員に通知し、折りあいよく活動をすすめていこうとした。

 愛国婦人会長野県支部は十三年三月に婦人報国精神の涵養を目的とする愛国子女団団則を制定し、高等女学校などへ結成を働きかけた。現長野市域で結成されたのは、同年三月六日長野文化学院愛国子女団(九三人)、三月二十一日松代高等女学校愛国子女団(一九八人)、六月二十日長野高等女学校愛国子女団(九八〇人)の三校であった(『県史近代』⑧)。

 女子青年団については、内務大臣・文部大臣の訓令を受けた県が、昭和二年三月十四日に女子青年団設置振興にかかわる通牒(つうちょう)を出し、県内各市町村の青年女子の代表を集めての女子青年団幹部養成講座を開くと、市町村の婦人会・同窓会・処女会を母体とした女子青年部や女子青年団が結成され始めた。

 県では翌三年四月二十二日に長野市城山館蔵春閣で、県内各町村の婦人会・女子青年の代表一〇〇〇人ほどを集めて、長野県女子青年団の発足会を開いた。ここで役員として、理事長に県の福島学務部長、常任理事に県の沼越社会課長・丸山みすず(長野)・青柳きさ(松本)、幹事に県社会課の丹沢主事、関・西沢両県属を選び、小河原トミ子の会員代表あいさつ、東京女子大学学長安井てつの講演を聞いた。これについて、四月二十八日の『上田毎日新聞』に「県連合女子青年団の存在は無意義」と題する「凉美」名による投書が載った。それは「宣言書には無知より聡明へ、依頼より独立へ、無力より有力へと書いてあるが、理事長や常任理事や幹事に県の課長や社会課主事を推せんしているのは、無知・依頼・無力のあらわれではないか。官製女子青年団とか善光寺参拝団とかいわれているのをご存知か。青年団は自治こそ大切であり、それのない女子青年団なら解散するほうがよい。」という内容で、女子青年団員の覚醒をうながすものであった。

 長野市では通牒をうけてただちに女子青年団創立の動きがあり、同年三月三十日に婦人会執行部の丸山みすず・倉島あき・村松としたちが集まって創立準備をした。そして四月二十九日に城山館蔵春閣に一〇〇〇人ほどの女子青年・婦人会員が集まって、長野市女子青年団創立総会を開いた。幹事長に丸山みすず、副幹事長に永田きみ子を選んだが、四年四月二十八日に大本願明照殿に四〇〇人を集めた第三回総会では、団員のなかから幹事長に小林三枝子、副幹事長に小池節を選んでいる。長野市女子青年団は、「朗らかな明るい長野市にいたしましょう」というスローガンを掲げて、公徳運動・社会浄化の活動に力を入れている。

 同三年十一月十五日には屋代劇場で埴科連合女子青年団の創立総会が開かれ、団長に保木熊蔵(松代小学校長)、副団長に矢島トキ(屋代町)、幹事八人(北埴三・中埴三・南埴二)を選んだ。

 上水内郡でも五年四月二十日には、城山館蔵春閣で上水内女子連合青年団の総会を開き、会長に花岡しげ枝、副会長に佐藤きか・酒井文子を選び、三人の団員の意見発表をおこない、片山長野師範学校長の講演を聞いた。上水内女子連合青年団は、上水内教育部会・上水内郡連合青年団・上水内郡方面委員会・上水内郡融和委員会などとともに上水内教化団を組織し、学務部・社会教育部・社会事業部をおいて、家庭生活改善講習会・慰問金募集・出征軍人や戦傷病死者の家族の慰問、時局対策、映画鑑賞会などをおこなっている。

 女子青年団の組織は、市町村や学校区単位での組織を奨励されたが、県の指導もあって、表28でみるように十四、五歳から二五歳または結婚までの女性を正団員とし、団長には団員以外の男性(小学校長か徳望あるもの)をすえるのと団員内から選出するのが半々ぐらいであった。活動は、講演会・講習会・見学旅行・遠足・敬老会・生活改善・貯蓄・慰問袋作成などであった。


表28 女子青年団調査 (昭和7年4月)

 特色ある活動の例としては、芋井女子青年団の場合は昭和十年飯綱高原に修養道場「清気寮」を経営し、一週間の宿泊をして修養・開墾(そば・大根)などをおこない、更府女子青年団は県道長野飯田線の除草・除雪を請けおって、得たお金を活動資金としており、大豆島女子青年団は消防隊を組織した。芋井女子青年団は、のちに文部省表彰を受けた。


写真72 上水内郡連合女子青年団の創立10周年記念団誌


写真73 塩崎女子青年団旗
(塩崎小学校所蔵)