仏教とキリスト教の動向

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昭和の初年代は善光寺にとって、困難な問題が続出した時期であった。明治三十二年以降、宗教法案は何度も上程されながら、国会を通過しなかった。昭和二年(一九二七)に再び宗教法案は国会に上程された。この法案が通ると、天台宗と浄土宗の両宗に関係する善光寺は、同法案六四条の規定を受けることから、天台浄土両派の管長の決裁権が大勧進と大本願を拘束することになり、善光寺の独自性は失われる状況となった。また、大正十五年(一九二六)の地方税制改正で住職の居住する庫裏(くり)には家屋税を課税することになった。長野県は昭和二年五月から課税を研究し、善光寺院坊は住職の居住空間で、寺院ではないとして課税を検討しはじめた。さまざまな研究と経緯の結果、長野県は院坊へは課税はしないと結論をだし、その見解を長野市に通達したが、長野市は税収入に院坊の家屋税を盛りこんでいたので、市議会では課税問題の経緯について質問がおこなわれた。県下の寺院では課税されたところもあり、徴税された寺院からは異議が続出した。

 昭和二年六月には善光寺一山が計画中の仏教図書館は、経費のめどはついたが敷地問題で難航した。敷地問題は年を越し、四年春には着工が予定されるところまで計画はすすんだ。城山公園内に長野市が土地を提供する方向で、一度は軌道に乗るかにみえたが、設計図の段階で図書館の二階が団体参拝客の昼食などの施設とする構想が明らかになり、これはもってのほかと商人や市民から激しい反発の声があがり、三年の暮れには実現の見通しが立たなくなった。

 昭和四年三月十一日に上山田温泉劇場で、善光寺無尽の被害者が結束して、無尽の責任者を追求する大集会を開催した。三十余講の帳簿が警察に押収され、県当局も悪無尽を取り締まる規定の制定に取りかかった。大勧進大僧正は責任を感じて辞意をもらした。三宝講世話人会は調査委員会をつくり調査に乗りだした。善光寺一山は責任を明らかにするよう、無尽講責任者の院主に隠退を迫っている。

 昭和六年三月、院坊会議で善光寺改革の第一声があがった。ただちに研究部が組織された。『信毎』が報じる改革案は、①宿坊を廃止すること ②大勧進側院大本願側坊両者合同の収納所を設立すること ③院坊にたいしては公平なる月額支給をなすこと ④院坊住職にはその労働に応じて一定額の報酬をなすことであった。この大変革は善光寺が一山として機能することであった。それには、大勧進と大本願が合同に参加しうるかという重大な難点をもっていた。

 この改革には、内務省も調査するなど関心を示すにいたり、善光寺は明治維新期につぐ重大転機を迎えた。長野市もこの問題に乗りだし、六年十二月十一日には商工会議所に市内各方面の代表者を集め、調停に乗りだす態度について協議している。

 しかし、この時期の調停には疑問が多く、さらに研究することにし、市民代表の小委員会を設置した。第一回委員会は具体案を協議したが、大勧進と大本願の対立抗争停止を改革の前提とした。昭和七年三月には小委員会改革原案を提示した。善光寺一山は大評定を開催し、僧正提出の諮問案を討議した。急進派が僧正を弾劾するなど問題は混迷した。

 善光寺保存会の会長に宮下友雄が就任し、改革問題は進展するかに見えたが、善光寺両宗合同、座主公選など重大問題が噴出し、解決や決定をみることはできなかった。


写真74 善光寺保存会長宮下友雄
長野市連合青年会長、信濃同仁会理事もつとめた

 長野県の社会福祉事業は、仏教社会事業協会の手ですすめられてきていたが、長野県はさらに事業をすすめるべく、昭和二年一月に大勧進と大本願の執事に要請をおこない、『信毎』も「宗教徒の奉仕生活」という評論を掲げて、善光寺に社会事業を要望した。

 大本願は県の要請を考慮しつつ、二年五月に二万円の規模で新しい社会事業を計画した。その一つは長野市方面委員助成会の事業としている託児所を増設し、本山と連携して高等女学校も設立しようというものであった。昭和三年九月、大本願は婦人相談所を開設し、家庭問題の相談と職業斡旋(あっせん)、救療保護、宿泊保護、妊産婦保護、乳幼児保護、婦人釈放者保護などをおこなった。

 善光寺一山は従来から計画のあった善光寺納骨堂を、昭和二年一月に工費一〇五万円で設立する方向を打ちだした。この納骨堂計画は難航し、一度は建築が不許可になったが、計画を変更して許可を受け、納骨堂への参詣道も新設することに決まり、昭和十年六月に入札され、滝上の山地籍(大峰山山腹)で九月八日に起工式をおこなった。日中戦争、第二次世界大戦をはさんで落成は戦後にもちこされた。


写真75 昭和15年ころの上松滝地区と雲上殿(昭和10年着工)
(丸山孝四郎所蔵)

 善光寺は明治二十四年の大火で仁王門や院坊の大半が焼失した。その後再建されたが、建築願いが出ていたが落成届が出ていなかったので、書類上は廃寺の扱いであった。院坊課税問題でこの事態が明らかになり、昭和三年七月に一一院坊は落成届を県に提出したが、県は廃寺扱いに固執して届けを返却したので、善光寺は長野市にも陳情した。その後、正規の落成届を出すことで県も了承して一件落着した。そのため、長野市の寺院は県統計書によれば、昭和四年は六五寺院であったものが、昭和五年には九四寺院に増加している。廃寺扱いであったその他の院坊以外の寺院もこの機会に行政指導で新たに登録をしたのである。

 昭和七年暮れ、長野市の方面委員は救護法適用家庭等八〇〇人に正月を越す資金の援助を呼びかけたところ、松代の長国寺は青山物外老師以下二十数人の雲水が長野市内で四日間の托鉢をおこなって協力した。キリスト教会も市民クリスマス礼拝を開催し、その席上の献金を寄付している。

 東筑摩教育会会長手塚縫蔵の始めた聖書研究会は、多くの教員信徒を生みだした。手塚の盟友であった小原福治は、昭和二年に加茂小学校長となり、日本基督教会長野教会に出席したが、同五年から信徒のまま教会の説教を担当し、教会運営の責任を負い牧師の任務をおこなった。この教会には滝沢万次郎、田中嘉忠ら信州白樺教育の関係者が集まっていた。


写真76 真田家の菩提寺である松代の長国寺 (「松代附近名勝図会」より)

 小原は昭和五年から新設校の柳町小学校長となり、田中嘉忠が主席訓導となった。小原をしたって県下各郡から優秀な教師が集まり、長野教会はさながら教員教会の様相を呈した。小原は柳町小学校で人格主義教育といわれた自由に満ちた校風を確立した。手塚縫蔵が信徒のまま牧会(信徒の指導と教会の管理)していた松本伝道教会と長野教会は、信徒のなかに四十数人の小学校長を擁し、信州教育界に影響力をもった。

 日本メソジスト教会長野教会(現長野県町教会)は、明治・大正以来廃娼運動に取りくんできた。同系列の松代・屋代・上田のメソジスト教会と協力して、教会内に「廓清会」や「婦人矯風会」の支部をつくり、街頭にでて廃娼の署名活動や廃娼講演会を開催した。昭和四年には県会に廃娼賛成の署名簿を提出した。この運動は昭和六年までつづけられ、廃娼案は長野県会で可決された。

 昭和四年二月に宣教師ダニエル・ノルマン(一九〇二年から長野に住む)は、長野市南県町の自宅敷地内の進徳館を会場に、第一回信州農民福音学校を開催した。講師には杉山元次郎が招かれている。長野県町教会の伝道所であった芹田講義所は、昭和五年に北信全体の農村伝道を担当するために、北信中央教会という教会に昇格し、第二回以降の農民福音学校は北信中央教会を会場に開かれた。

 昭和六年には男子とは別に、農村女子福音学校が長野市旭幼稚園を会場に開催された。スローガンは農村の浄化と幼児保護のために心と体を捧げるであった。この女子福音学校も昭和八年に第二回を開催したが、第三回は稲里村の川中島幼稚園を会場とし「農村における婦人事業」をテーマとした。やがてこの福音学校は「農繁期託児所保姆講習会」の性格をもち、教会関係者以外の参加者が増加し、昭和十三年には更正家庭学校の名称で稲里隣保館を会場に開催され、昭和十五年までつづいた。

 ダニエル・ノルマンが昭和九年に引退し、かわりに赴任した宣教師はA・R・ストーンであった。ストーンは地上に神の国を築くことを目標に、農村伝道と農村更生運動を展開した。カナダ合同教会からの援助で、昭和十一年に「信濃農村社会教区」を設置し、北信中央教会と県町教会の更級郡居住の信徒をこの教区に移して、農村伝道を開始した。牧師木俣敏は中津村南原に住み、篠ノ井講義所、稲里村出張所(教会・隣保館兼用)、青木島出張所を牧会した。稲里村を拠点に村の方面事業委員と児童愛護会と共同で、四ヵ月間の農繁期託児所をつくり、青木島にも二ヵ所の農繁期託児所をつくった。稲里村にはカナダ婦人宣教師団の協力で通年の幼稚園もつくり、またパン窯を設置して村民の食生活改善につとめた。昭和十二年の報告では、十~十一月のパン窯利用実績は二五〇戸にのぼっている。村の更生計画の一環での諸事業は、ジャム・アミノ酸などの農産加工、巡回看護婦による保健衛生事業、女子と男子の授産事業におよんでいる。

 日本聖公会長野聖救主教会は、明治二十五年(一八九二)の伝道開始以来カナダ人司祭ゼ・ジ・ウオーラーが、長野を中心に伝道と牧会にあたった。昭和期に入って長野市内の伝道地は、西長野の教会のほか問御所、七二会、川田にあった。

 聖公会は伝道当初より医療伝道に特色があった。ウオーラーは大正期から結核療養所の建設を企画し、母教会のカナダ聖公会に募金を訴えていた。上田大屋方面も物色したが土地を入手できずにいたが、昭和五年に小布施町居住の聖救主教会の信徒グループの尽力で、上高井郡小布施町松川縁に一万坪の土地を取得し、昭和七年二月から建設を始め、十月一日から新生療養所を発足させた。

 伝道館派は、大正十三年に松代町で集会が始まり、翌大正十四年三月に松代基督伝道館が成立した。同年七月伝道館活水派の総帥柘植不知人(つげふちと)が長野市旭町で集会をおこない、多くの人が集まった。専任の伝道者が得られなかったので、この信徒等の日曜日の礼拝は長野師範学校教諭の杉崎瑢が司り、信徒を導いた。この派の集会は須坂・信州新町・松代・長野でおこなわれていたが、信徒には教員が多かった。昭和二年(一九二七)に松代伝道館は閉鎖し、松代の信徒は長野の信徒の群に合流した。信州新町で基督伝道館の看板を掲げていた人びとは、小学校長の弾圧による信徒教員の転任で信州新町伝道館を閉鎖した。

 昭和七年長野市長門町に長野基督伝道館が設立され牧師も着任した。しかし、翌八年に牧師が転任して牧師不在となったので、この集会はふたたび杉崎瑢の自宅に移され、杉崎の手で守られ指導された。この杉崎宅の礼拝と集会に出席していた人びとのなかの教員六人が二・四事件に連座した。杉崎はこれら逮捕された教え子の青年たちを支えた。

 昭和十年五月にいたり橋本正治牧師が着任し、長野市妻科に家を借り妻科基督伝道館(現信州教会)が設立された。