大正十五年(一九二六)に郡制が廃止されると、郡官吏がつとめていた幣帛(へいはく)供進使は市町村長に委任されることになった。また郡役所で掌握していた神社事務は、原則として神社協会郡支会に移行されたが、一部の地域では県の出先機関が相変わらず担当した。昭和二年(一九二七)に明治天皇誕生日の十一月三日が明治節と定められ、長く明治天皇の遺徳を仰ぎ明治時代を追憶すべしという詔勅が出された。
昭和三年には即位礼(昭和天皇)と大嘗祭をおこなうことになり、当日は官幣・国幣社以下の全神社では祭祀をおこなうことが内務省令で公布された。長野県は大嘗祭当日、官幣大社諏訪神社・国幣中社生島足島神社・国幣小社戸隠神社に書記官を参向させ、県社と郷社には県属または事務官を参向させた。長野市域の神社への幣帛供進使の参向先はつぎのようであった。
郷社では、祝(ほうり)神社(松代)、玉依比売命(たまよりひめのみこと)神社(松代)、小内(おない)神社(綿内)、布制(ふせい)神社(信里)、布制神社(川柳)、氷鉋斗売(ひがなとめ)神社(稲里)、長田(おさだ)神社(川田)、蚊里田(かりた)八幡神社(若槻)、皇足穂命(すめたるほのみこと)神社(芋井)、北郷朝川原(きたごうあさがわら)神社(浅川)、守田(もりた)神社(七二会)、妻科(つましな)神社(長野)、美和(みわ)神社(長野)
県社では、健御名方富命彦神別(たけみなかたとみのみことひこかみわけ)神社(城山)、白鳥(しらとり)神社(松代)
昭和四年には、普通選挙法の施行と関連して神職にも「普選」を適用し、神職であっても衆議院議員および県市町村議会議員の被選挙権を認めることになった。神職の現職は辞任して議員となるのが望ましいと、内務省神社局は通牒(つうちょう)したが、第一回普通選挙で県下では五人の神官が村会議員に当選した。長野市市域での当選者はなかった。
また、長野市城山にあった神職合議所は、皇典講究分所を合併して神職会館となり、一般にも開放されることになった。長野県神社協会の会長は県知事であり、その事務所は県の社寺兵務課内におかれていて、協会の会議その他すべては県庁内でおこなわれていたので、会館を一般に開放した。
昭和五年二月には、長野県学務部長が県下の全神社神職にたいし、国民精神作興運動の実施状況の報告を要求した。国民精神作興運動の推進方法として、氏子意識の高揚がもとめられ、氏子総代の選出がはかられた。六月二十八日には内務省の神社制度調査会で、内務大臣は「神社は宗教ではない」と答弁し、神社は日本国家の宗祀であり、永遠にこれを尊崇しなければならないもので、宗教から区別して扱ってきたとして、神社の地位を明確にした。十二月十五日には内閣書記官長(現官房長官)から文部省にたいし、国旗の制式(縦横の比率)と掲揚方法について見解が示された。国民精神総動員運動は、神官、氏子の意識、国旗などを中心に浸透がはかられていったのである。
昭和六年三月の第二回「長野県神社制度調査会」は、氏子区域の件、氏子区域内の全居住者は氏子としての義務を負う、氏子総代の神職推薦権、氏子総代会の組織等を研究事項としている。また、この年の四月十四日には妻科神社が県社に列格され、現長野市域では県社は三社となった。
昭和八年十一月二十一日に長野県神社氏子総代会が開かれ、長野市氏子代表として羽田重一郎が出席した。昭和九年の長野県氏子総代会役員は、総裁が岡田周造県知事、会長が今井五介であり、副会長は長野市の羽田重一郎であった。参与の一人は長野市助役高野忠衛で、評議員には篠ノ井の宮入源之助、芋井の古沢嘉賀蔵(上水内郡氏子総代)および長野市の山田昇三が加わっている。
このころから神前結婚式が奨励され、神宮大麻の受領奨励や師範教育に敬神崇祖の情操を養うことがもとめられた。昭和十年八月二日には美和神社(長野市三輪)が県社に列格され、現長野市域の県社は四社となった。神社崇敬の高揚とともに、神社がわでは社格の昇進のために激しい運動を繰りひろげた。
象山神社は大正二年に松代町で佐久間象山五十年祭が挙行されてから創立の気運がおこり、神社創立調査委員があげられ、以来二〇年にわたって調査し、また設立の議決がなされてきた。「象山神社創立願書」は昭和四年五月八日に内務大臣に提出された。最初の計画は敷地の件で内務省が否定したので、翌五年に変更追願し、県当局による数度の現地調査の結果、昭和六年五月十六日に創立が認可された。
神社設立の認可を受けたので、「神社建立会」の設立を準備し、象山誕生地の隣地を内務省の調査で適地とし、売買契約をおこなった。いっぽう、乃木神社や松陰神社の様式を学びながら、象山神社建築の構想が立てられ、神社建築の募金が計画された。
昭和七年六月に長野県下一円での寄付金募集の許可を長野県知事に提出し、一〇万円の募金を開始した。地元松代町が一万三〇〇〇円、周辺の清野・西条・豊栄・東条・寺尾の五ヵ村二五〇〇円、長野、上田、松本市で五五〇〇円、県下各学校児童生徒で一万五〇〇〇円等であった。
同七年八月には象山神社建立会が設立された。総裁は伯爵眞田幸治、会長男爵眞田幸世、相談役は飯島忠夫、横田秀雄、堀内文治郎ら、幹事は幹事長矢沢頼道以下松代在住者があたり、会計は旧御用達商人の八田家の八田彦次郎であった。また、名誉顧問には侯爵木戸幸一、公爵島津忠重、同毛利元昭、今井五介など二八人が、顧問には小里頼永、成沢伍一郎、山口菊十郎、丸山弁三郎、福沢泰江、佐藤寅太郎、宮沢佐源次、小坂順造等二四人が就任した。
信濃教育会は象山研究に取りくみ、象山全集第一巻を昭和九年七月に刊行し、完結の第五巻は昭和十年に発行している。会をあげて象山の功績を回顧する姿勢を取っていたので、象山神社建立にあたり、会長佐藤寅太郎が顧問に就任し、会をあげて協力する体制を組んだのである。
象山神社創設募金は、郷土の偉人英霊を永久に祭祀すること、また国民精神作興ならびに思想善導のためと訴えている。アッピールにこたえて、昭和七年九月十七日には上田中学校教員生徒一同が一〇円、十八日には大町高等女学校が五円、十一月一日に古海小学校五円、神坂小学校三円、二日に平(北安)小学校一〇円と寄付金を寄せ、以後陸続(りくぞく)と寄付が寄せられている。これにこたえて象山会は同年十二月十四日に「象山先生肖像原刷物」を県下各学校へ郵便で発送した。
たまたま世界大恐慌の時期にあたったが、募金が集まり、敷地一八七二坪(約六一七八平方メートル)に本殿・幣殿・拝殿・社務所等が完成し、昭和十一年五月二十三日に上棟式を執行し、社殿の完成を見た。
祭神佐久間修理(号象山)、例祭十月十一日の象山神社は、昭和十三年十月二十四日県社に列格された。宮司には男爵眞田幸世が就任した。遷座大祭は昭和十三年十一月三日におこなわれ、参列者は五〇〇〇人におよぶ盛儀であった。十一月五日には信濃教育会が象山七五年祭を挙行し、三〇〇〇人の県下教員が集合した。遷座祭に合わせて一五日間の奉祝祭がおこなわれた。