金融恐慌につづく世界大恐慌の時期に入ったが、この不景気にもかかわらず円本とよばれた文学全集がつぎつぎに発刊された。改造社は『現代日本文学全集』を刊行したが、昭和二年(一九二七)五月二十一日には長野市相生座で、この全集刊行記念の講演会と映画会を開催した。講師は谷崎清二・上司小剣・野口米二郎であった。
改造社はつづけて『世界大衆文学全集』を刊行し、昭和三年三月七日に長野市相生座で出版記念「講演映画大会」を開催した。講師は木村毅・高橋邦太郎で、映画はマロー原作「家なき子」であった。
大正末年には共産党系とアナーキスト系の文化活動が分裂し、昭和初年代のプロレタリア文化運動はマルクス主義の影響下にあった。その後も分裂と離合集散が繰りかえされたが、労農派を一掃した共産党のもとに全日本無産者芸術連盟(ナップ)が結成された。ところが昭和六年三月に蔵原惟人(変名古川荘一郎)がモスクワからもちかえったテーゼで、ナップは共産党の純然たる外郭団体となって解体され、日本プロレタリア文化連盟(コップ)が結成された。
長野県のプロレタリア文化運動は主として中南信が中心であったが、日本プロレタリア作家同盟(作同、機関紙『文学新聞』)の長野支部は、昭和六年十月に徳永直と遠藤尋市により秘密裏に長野市で結成された。作同長野支部は六年末には全県的組織に拡大され、支部長に高倉輝、書記長に遠藤尋市が就任した。作同は七年三月、徳永直・池田寿夫・江口渙(きよし)らによる巡回講演会を県下各地で開催したが、長野市での講演会では二〇〇人が集まっている。
コップ長野地方協議会は昭和七年五月から結成の準備が始められ、県下最有力の組織であった作同長野支部が中心になった。同五月にはまず伊那地区がコップ長野地方協議会に参加し、八月には長野支部機関紙『信州文化』が発刊された。九月には諏訪地区も参加し、全県的組織が完成した。
『信毎』は昭和三年「我らの論壇」という紙面をもうけ、県下の読者から投稿をもとめた。三年一月の論壇のテーマは「農村青年は何をなすべきか」であり、東北信から七〇人余の青年が投稿したが、現長野市域からの投稿者はこのうち二〇人を占めている。採用され紙面に登場したのは下伊那飯田の羽生三七で「被抑圧民衆を護れ」であった。昭和七年春の『信毎』はナップ作家評判記を連載し、壺井繁治・中本たか子・秋田雨雀等数十人の作家の紹介をしている。昭和八年二月四日(二・四事件)以降、プロレタリア運動にたいする弾圧が強化され、作同長野支部の幹部も検挙された。教員も多数検挙された。
長野市には専用の音楽ホールはなかったので、音楽会は城山の蔵春閣で開かれた。昭和四年九月には日本を代表する男性テノール歌手藤原義江の独唱会が開催され、満員の盛況であった。五年四月九日の関屋敏子ソプラノ独唱会では、感激の渦に包まれたと、『信毎』は伝えている。同年五月十八日にはボリス・ラスのバイオリン独奏会が、九年九月にはふたたび関屋敏子のソプラノ独唱会がそれぞれ蔵春閣で開かれている。
美術では、専用の画廊や美術館がなかったので、展覧会は信濃毎日新聞社の講堂か、県立図書館ができてからは図書館ホールで開かれている。昭和三年十月には長野美術協会会員展が、五年五月には双水美術展が信濃毎日新聞社講堂で開催された。
『信毎』の短歌・俳句の投稿欄は、長野地方の創作活動の舞台となっていた。昭和初年の読者が投稿する短歌と俳句の選者は、土田耕平、太田瑞穂、若山牧水、臼田亜浪の四人であった。昭和二年一月の若山牧水選の短歌欄には「ともかくも健なるを喜びの限りと思ひ今日も働く」がとられている。
また、昭和二年は小林一茶百年忌にあたったので、百年忌記念講演会が十二月八日におこなわれ、柳田国男が講演している。昭和十年十一月には長野市で全国俳人大会が開かれ、十一年には「小林一茶百十年」ということで一茶関係の研究や出版がなされ、吉田町出身の「何丸」が、「信濃路に蘇る月院社何丸」と評価された。