NHKのラジオ放送開始と報道

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長野市にラジオ中継局を誘致しようという運動は、昭和二年(一九二七)にはじまった。最初はラジオといわずに「無線放送中継局」といい、この中継局誘致に向かって、長野市内の有力者が商工会議所に会合して運動を開始し、放送協会に陳情し誘致工作をおこなった。三年十一月にいたって新潟県方面の聴取者にも好都合であるとして、他地域の運動をおさえて長野市に中継放送局を設置することになり、実地試験が開始された。NHKは最初有線中継も考えたようであるが、この時点で無線放送に変更された。

 昭和四年一月の段階では、長野市に出力一〇キロワットの放送中継局を設置する予定であったが、長野県を取りまく山岳がじゃまで簡単には放送局の設置ができないので、松本その他に小放送局を分設する計画に変更され、長野放送局の出力は三キロワットに縮小された。五月にいたりラジオ中継局の場所は、裾花川と犀川が合流する地点を候補とすることになった。この土地は気流が安定しているというのがその理由であった。

 昭和五年六月に、長野放送局は城山の高台に設置することになり、受信局は安茂里村の通称ドン山(旭山、正午の時報にドンを打つ山)にきまり工事を開始した。昭和六年三月一日から試験放送が始まった。長野放送局の愛称名はJONKときまり、長野市内の放送聴取料金はNHKの直接徴収であった。


写真79 城山に建てられたNHK長野放送局 (『長野市勢要覧』より)

 長野放送局の開所式は昭和六年三月八日におこなわれた。当日は日曜日でもあり全市あげてのお祝いとなり、花火があがり廉売がおこなわれた。式は午前一〇時五〇分から始まり、最初の奏楽(行進曲)は東京の愛宕山放送局から送られ、開式の辞のあとの奏楽(君が代)はまた愛宕山から送られた。挨拶(あいさつ)はNHK会長、祝辞は逓信大臣・長野県知事・県会議長・長野市長・長野商工会議所会頭・上田蚕糸専門学校長という顔ぶれであった。当日夜には開局記念がおこなわれ、海軍軍楽隊の吹奏楽、歌沢節(うたざわぶし)、箏曲(そうきょく)、所作音頭(長唄、常磐津、義太夫)が放送された。こども向けの番組も組まれ、朝の九時半からは「唄と唱歌劇」、夕方六時からは口笛とレコードが流された。

 当時のラジオは鉱石ラジオが主流で、長野市内の一六のラジオ店で、およそ六、七千台売れたというが、自分で竹の竿をたててアンテナを張ったものもあり、なかには無知から高圧線の上にアンテナをかけたりする危険なことをする人もあったという。放送開始当初は邦楽や浪曲などの娯楽番組が多かったが、昭和八年一月にはJONKの制作番組で、「不況時代の養蚕経営について」などの連続「養蚕時事問題講座」を一二回にわたって放送している。受信局は安茂里にあったが、昭和八年四月二十三日には長野市城山にラジオ塔が完成し、安茂里受信所の使命は終わった。

 昭和十一年三月に長野放送局は開局五周年記念事業をおこなったが、昼の部は菊田劇場から「子供会」の中継であった。夜の部は歌謡曲や長野市芸妓連の信濃よいとこ、伊那節、木曽節等であった。

 昭和七年九月、政府は満州事変の正当性を内外に宣伝するため、文部・陸軍・海軍・内務・逓信・外務の各省から担当者を出して、のちに内閣情報局となる情報委員会を組織した。この委員会(情報局)は国策遂行のための情報収集と言論統制をおこなった。

 昭和八年八月九日から三日間、大規模な「関東防空大演習」が実施された。長野県では八年四月に上田市で防空演習がおこなわれていたが、八年八月九日から三日間、大規模な関東防空大演習が東京を中心におこなわれた。首都東京防衛の演習であった。「関東防空大演習」がラジオで実況中継されると、ときの信毎主筆桐生悠々は、「関東防空大演習を嗤(わら)う」という社説(評論という欄)を八月十一日にかかげ、東京上空に敵の飛行機を迎えた場合を想定した軍の作戦行動を鋭く批判した。首都防衛は太平洋上で敵機を迎撃するのでなければ、ナンセンスであると論じたのである。


写真80 関東防空大演習を批判した桐生悠々
(『長野県おもしろ世相史』(上)より)

 この社説は軍と密接に連携して運動する信州郷軍同志会など、国家主義的諸団体のはげしい攻撃の的となった。同志会は信濃毎日新聞社にたいし、関係者の処分と陳謝を要求した。郷軍同志会や在郷軍人会は信毎の不買運動を展開した。結局桐生悠々は退社し、小阪武雄取締役は謹慎した。軍部と結ぶ国家主義諸団体の暴力的威嚇(いかく)と攻撃と、ビラなどによる世論操作にもとづく圧力によって、報道の自由が抑圧された事件であった。

 昭和八年二月四日に摘発が始まった二・四事件は、桐生悠々追放から七ヵ月後の九月十五日に報道解禁となった。新聞報道禁止時にも、国家主義的団体の新聞は暴露記事を掲載し、恐るべき赤化事件としてキャンペーンを張っていた。検挙直後の二月十日の『信毎』は、「赤色教員狩り愈(いよ)よ急」という大見出しのもと、「柳町、浅川、上田をはじめ昨暁来、続々と検挙さる」と報道した。

 二・四事件の衝撃的なところは長野市民にとっては小学校教員の検挙であった。しかし、同じ紙面で「帝大出の代用教員 上田で秘かに検挙」の見出しで、長野中学校・京都大学哲学科出身の河村卓について、「評判のいい青年で過激派の感じがない」と、好意的な報道もしている。

 事件の全容や検挙者数と起訴人数は、記事掲載解禁のこのときまで報道されていなかった。記事解禁の当日、『信毎』は号外をだし「戦慄! 教育赤化の全貌」という、六段抜きの大見出しをかかげた。この事件はあくまでも教育界の赤化問題として報道されたのである。起訴者氏名は「教労(教師)」の部二九人、「一般の部」四八人合計七七人と区分して報道された。教師は他の活動家に比べると人数的に少ないが、「教科書を巧みに逆用し教壇の神聖を汚辱す 反戦、反宗教、闘争意識を注入」と教育界の不祥事として大報道を展開した。七ヵ月前の検挙時と、明らかに違う感じの紙面構成になっている。